鰯雲何も赦されてはをらぬ 麻乃
ここにある神との対話はいったい何者の眼差しであろうかと、気になる一句を
巻頭に事上げしたい。
氏とはもっぱらこの数年来、フェースブック上で「いいね」のやり取りをしている仲である。お互いに生の実物にま見えたこともないのだが、今回の句集鑑賞に限っても、俳人は俳句でその人を知るのが正道であろうと高を括っている。「人」というより正確には「人柄、息遣い、誠」と言いたい。
作者が詩人の父と俳人の母を持つ不思議な世界からやってきた少女の如きさながらであるという序文に指摘した筑紫氏の文脈は美しく興味をそそられるものではあるが、さて、それが作者自身にとって如何ほどの後押しになるかは誰も分からない。注目される舞台に否が応でも踊り続ける対象。それが麻乃氏の宿命なのかもしれないが、そのような人間へ興味本位の眼差しに終始するつもりなど私にはさらさらない。詩人の血が受け継がれていることもまた紛れもない事であろうし、そのような謂わばよくも悪しくも「選ばれたような存在」に対する関心がないこともない。それは殆ど「哀れさ」と双子のようなものでさえある。
人は愛され過ぎても不安なものだし、本人のためにもならないことがある。いうまでもなく俳句作者は作品を通して作品自体も作者当人も評価されるべきで本物の俳人とはそれを望んでいると思いたい。
気を付けの姿勢で金魚釣られけり 麻乃
ナナフシの次に置く手に迷ひたり
すでに第一句集にみられる氏の写生への傾斜。そこには父から受け継いだ詩人の叙情ではなく、何故か母性の芯に通うリアリストの眼差しが散見され、私にはそんな氏の幾分俯き加減なリアリストの眼差しの方が大いに気になる。どこで誰に学んだのか、写生力がある。写実への好奇心がある。なればこそ、ときに巻頭句のような作品に胸を打たれ、刮目されるのである。信頼できるのである。氏はありのままの自分を愛してほしいと言ってるかのようである。ありのままでいたいと言ってるかのようである。
さて、ありのままとは何か。氏にはそれがまだ疑心暗鬼なのかもしれない。赦されていないと感じる人間の、誠実さ、批判精神がある。それこそが詩人の父から受け継いだ「光るもの」かもしれないと勝手に思ったりもする。
人とゐて人と進みて初詣 麻乃
さて、氏はロックの世界にも足を踏み入れ興味をそそられているようだが、内に秘めるロックなものとはなんだろうか。ロックの何たるかを知らないままに、外見から想像するのだが、それはコアなもの。飾らないもの。私的に言えば「ありのまま」への憧れではなかろうかと田舎のおじさんにして僧たる私は妄想したりする。
そこにあるのはリアリストの衝動だろうか。そうではなかろう。あの芸術は爆発だみたいな表現の低意には、リアリストとは一見対照的なロマンチストの面目が躍如しているのではないのかと思ったりする。リアリストとロマンチスト。それは相反するものではない。いのちの表裏、正負、ダイナモみたいなものだ。人はだれもがそのようなナルシストではないかな。その矛盾力こそが生きて行く力、潤滑油そのものといっても過言ではなかろう。理屈では割り切れないものを内に秘めて人はこの世に生まれ落ち、生き、死んでいく。詩人とは言葉の向こうの光り、暗黒を覗こうとするもののことだ。謎解きに見せられたナルシスト。それは命懸けであるがゆえに、人には伺い知れない喜悦と不安を わが宿命としていかなければなるまい。太宰治は「選ばれてあることの恍惚と不安」と言ったが、「群衆の中にいることの恍惚と不安」というのが本当ではないかな。掲句にはそんな人間の慎ましさがあるじゃないか。
花篝向かうの街で母が泣く 麻乃
母は何故泣いているのだろう。詩人の父がいないからだろうか。氏もまた泣いているに違いない。星の王子様なんていないことは知っている。父はただ父であったのであり、その愛は無償という現実であったのであり、それを失くしたことへの不安、虚ろさからの響きがある。詩人への愛を母子で共有しているのだ。
リアリストにならざるを得ない夢のような現実。だからこそ星に憧れるといった衝動。それこそが氏の俳諧の誠ではないかな。ロックなるものではないかな。そうあってほしいな。
さて、そんな表現の彼岸へ越える脚力が氏にあるかどうか。骨太な精神あるかどうか。一誌の主宰としての力量があることは言うまでもないが、リアリストにしてロマンを捨てきれない一定型詩人としての氏の大成を願って已まない。合掌。
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