先日参加した羽子板市句会の打ち上げで彼女は唐突にメタルシンガーだったと言うんである。んん?なんだかおもしれー奴だなぁ。
辻村麻乃。
父にマルチな才能を持つ詩人岡田隆彦を、母に俳句結社「篠」を率いる俳人、岡田史乃を持つと書けばそりゃ相当のお嬢様であろうことは想像に難くない。下町の工場に生まれ育ったぼくには想像もできない話である。それにしてもメタル出身の俳人なんてそうそう居るもんじゃない。まったく俳人というのは不揃いの河原石である。とんがってるんだか丸いんだか知らないが面白い句を披露してくれるのだろうと期待をしながら彼女の第二句集「るん」を開いて見ることにする。
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母留守の納戸に雛の眠りをり
家ありてなほ寂しからむ春の暮
春の菜がドアスコープの一面に
豈図らんや伝統俳句ではないか。当たり前といえば当たり前だ。定型詩とはその枠こそが広大無辺のカンバスであり、その可能性を追求するのが伝統系結社のテーゼ。主宰の娘がその矩を破ることはないだろう。母の強すぎる権威がふと鼻をつく。それは句にも出ていて作者は籠に囚われているような印象。反面、その堅固なる籠は彼女の安心感の拠り所でもあり、どこか母娘共依存の匂いが漂ってくる。
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凡人でありし日の父葱坊主
次こそのこその不実さ蚕卵紙
燕の巣そろそろ自由にさせようか
夏シャツや背中に父の憑いてくる
神無月父だけのゐる神道山
母に比して父の存在が希薄なのはおそらく父は多忙な公のひとであり、父への思慕が募るもそれが叶う事はないと悟りきった子供の独白に見えてくる。作者がなぜメタルに突っ走ったかが少しだけ分かった気がする。「叛逆」「反抗」と書くと物々しいし、それを作者は肯定しないだろうが、無意識下にその二文字があった事は想像に難くない。
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背鰭から金魚の朱の流れ行く
口開けし金魚の中の赤き闇
狂人の綺麗な鼻梁凌霄花
海のなき月の裏側見てしまふ
ステージからの視点を獲得した作者は大人の二面性に対し対峙する事を覚えたようだ。それは自分もまた両親と同じ人種なのだというどこか開き直りに近いものとアニムスの確立をこの句に強く感じるのだ。
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鬼一人泣きに来てゐる曼珠沙華
鰯雲何も赦されてはをらぬ
家族皆元に戻れよ冬オリオン
夫の持つ脈の期限や帰り花
狐火やここは何方の最期の地
福沢諭吉は「自由在不自由中」(自由は不自由の中にあり)と説いたが、彼女にとって家は不自由の象徴、共依存の園だったろう。しかしてそこから脱するためにメタルという鎧をまとったのだ。ステージに立ち、マイクの前に立つ時にのみ彼女は生来の軛から自由になれるのだ。抑圧が強ければ強いほどその反作用は強くなる。彼女はその時はじめて表現者を自認したのではないか。ノイジーなギターリフ、手数の多いドラム、単純でラウドなリズムを繰り返すベース。そこに心奥の本当の声を乗せる時、ステージは唯一彼女に赦された祭壇となる。
鳩吹きて柞の森にるんの吹く
るん。
「ルン」とはチベット語で風(rlung)を意味する。サンスクリットでプラーナ(Purāṇa)とも言う、いわゆる「気」を指す語だ。
彼女の胸中には幼少の頃からルンが流れている。この句集でそれを少しだけ解き放ったのかもしれないなとふと思ったのである。
るん。
おお麻乃と言ふ父探す冬の駅 辻村麻乃
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