先日、「馬酔木」・「沖」の新鋭であった故福永耕二に関する評論を送られて来ていたく感心したところである。近々、この本についての評を載せたいと思うが、この本を読みながら私もかつて能村登四郎の「沖」と言う雑誌で、何人かの友人や先輩の俳句を見ながら私なりの俳句観を形成していたことを思いだした。その中でも福永耕二始め何人かの作家には影響を受けたりしたものである。
ここでまず思いだすのは、坂巻純子である。齋藤愼爾氏と語り合うと、「沖」の女流ではいつも話題にのぼる作家であるが、惜しくも平成8年になくなっている。そう、あれからもう20年もたっている。
昭和11年千葉生まれ、能村登四郎の「沖」の前身の森句会から師事していたという。句集には、『新絹』『花呪文』『夕髪』『小鼓』があるが、『花呪文』で俳人協会新人賞を受賞している。
純子について書いたことがあるような記憶があり、調べてみると、「豈ーWeekly」で簡単な紹介を書いている。もう読み直す人もいないだろうから少し手を入れて紹介する。
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坂巻純子(昭和11年~平成8年)は「さかまきすみこ」と読む。周囲は「おすみ」さんと呼んでいた。柏の資産家の娘で生涯独身で暮らし、決して下品ではない、しかし姐御肌の女流であった。福永耕二と坂巻純子は、若手の多い「沖」にあって、一格上の兄貴・姐御のような存在であった。実際、「沖」で初めて俳人協会新人賞をとったのは福永耕二(受賞時には亡くなっていたが)であり、耕二の4年後に純子がとっているから、脚光を浴びている二人であった。純子には〈炎天をゆく胎内の闇浮かべ〉〈たらたらと螢火夢の継目かな〉の『新絹』(昭和51年 牧羊社)、〈朝寝してこの世しんかんたりしかな〉の『花呪文』(昭和59年 卯辰山文庫)という句集があり、特に後者で新人賞を受賞した。ただこの頃は遠くから眺めるだけの人であったのでこれ以上に言うべき言葉を持たない。
次の『夕髪』(昭和63年 富士見書房)、『小鼓』(平成8年 本阿弥書店)時代に、句会の帰りに初めてお酒を飲んで忌憚のない話をしたり、毒舌を吐き、また毒舌を浴びたりもしていたので語るべき話題も多少は出てくる。
一点の紅のうごきし雪間萌 『夕髪』
夕髪や嬥唄の山の青しづく
真似てみてやつぱり怖いをどり喰ひ
梶の葉や姉と姿見かはりあひ
離れにて足拭ひゐるいなびかり
蟹せせる美しき額をつき合せ
純子の特徴のよく分かる句である。純子の属性はこれらの句に端的に表れているといってよい。おそらく、杉田久女、三橋鷹女、橋本多佳子の系譜を継ぐものであることは容易に想像できよう。それは本人も意識していたらしく、〈夏痩の好き勝手してゐたるなり〉などという句を詠んでいるがこれは行き過ぎかもしれない。「いなびかり」の句は好きだ。
ただ純子に影響を与えた先人と違って、日本趣味に止まらなかったことは〈純白のシルクの裾を露の世へ〉〈森番の蟇に裳裾をつかまれし〉のような句が見られることからも頷ける。一歩踏み出す向上欲にも燃えていたのだ。
面白いのは、こんな華やかばかりではない句もこの句集からは見え始めていたことで、私には結構新境地に見えたものである。
蛍まつもうひとり待つ盃伏せて
ひだり足ときに浮かせて桃摘花
ねんねこのあのふくらみは眠りゐる
その次の『小鼓』は純子最後の句集となるわけだが、この句集に収められた作品こそ純子にとって最もドラマティックな時期の俳句であった。すでに純子は病気がちであり、私もほとんど会うこともなくなってしまっていた。
みそはぎに水ふくませる衰微かな 『小鼓』
ひたち野や御代がはりなる麦二寸
裏山の硫黄濁りに春は遅々
純子の基調は変わらないながら、表現の仕方が「沖」特有のダイレクトな譬喩から巧みな表現に変わってきている。純子のスタイルは純子独特とはいいながら誰かに真似できるものであったが、この句集ではちょっとうなりたくなるうまさとなってきた、技巧が生命力を超え始めたような印象さえ受けたものであった。
酔ふ前のしーんとしたる冷酒かな
何不自由なきアパートに闘魚飼ふ
台風籠りとは滝裏にゐるごとし
これが前句集で純子の新境地とよんだものの展開であり、純子がことさら拒否し続けた境涯性がどことなくほの見えてくるのは、遺句集に近い最後の句集だけに、後々になって考えると哀れである。
師の如く痩せれば見ゆる狐火か
初夢の鳴らぬ鼓に泣きてけり
白薔薇や狂ひもせずにじつと居て
圧巻はこのあたりであろう。「師の如く」は能村登四郎の相貌を知っていれば何となく納得できる作品だが、狐火が見えるというのは実は異常な境地なのである。とりわけ、それは登四郎ではなく純子に見え始めているのだから。師の如く痩せた純子を思うとぞっとする。
「鳴らぬ鼓」とは、宝生流にある能「綾鼓」(世阿弥の「恋の重荷」の元曲。鳴らぬ綾の鼓を鳴らせば女御との恋が叶うとだまされ死んだ老人の霊が女御を責め苛むという凄い曲)のこと、というと私が常々嫌っている過剰鑑賞になりそうだが、実はこうした深読みは今回ばかりは適切なようである、純子はこの第四句集を『綾の鼓』と名付ける意志であったが、由来を知る登四郎が強いてその名前を避けさせたという。綾の鼓伝説を承知してそのコンテクストの上で師弟はこの句と題名をやり取りしていたのだ。
「白薔薇」は純子の最後の燃えさかるような瞬間にふさわしく、〈夏痩の好き勝手〉の句とは比較にならない。
その後の闘病期の句は淡々として、最後を待っているような気がしないでもない。〈問診に短く答へ汗したり〉〈お負けほどの目方増えたり夜の秋〉〈冷まじや二時間待つて名を呼ばる〉。不治の病気と言うだけではないだろうが傍観的な態度が生まれているようだ。このちょっと前には、純子は「月に一度がんセンターに通いですが、医師に恋してますので何よりの楽しみ。俳句にはもっと恋して居ります」というしゃれた手紙をくれたりしていたのだが。
『小鼓』の感想を書いた手紙を平成8年7月28日に出したがさすがに今度は返事はなかった、じっさい、その時はもう純子は最後の入院をしていたはずだ。そしてその年の10月31日に亡くなっている、享年60。攝津幸彦の亡くなった二週間後であった。登四郎の追悼句は〈露の世のこよなき弟子を見送りし〉。同年同人の北村仁子も失い、〈双翼をもがれし年を逝かしむる〉と詠んだように、登四郎の晩年は最も忠実な弟子を相次いで失う失意の晩年であったのだ。
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