2018年2月23日金曜日

【新連載・西村麒麟特集2】麒麟第2句集『鴨』を読みたい 0.序に変えて          筑紫磐井

 西村麒麟と知り合ったのはいつからだろう。御中虫が句集を上梓する前に連載を依頼したときに、彼女と相性のいい作家ということで紹介を受けたように思う[注]。もちろん御中虫は個性的な作家であったが、彼女の批評をした西村麒麟も負けず劣らず個性的であった。御中虫は賞賛と罵倒が実は境目がないということを文体として示したのだが、麒麟は嘘と真実が境目がないということを文体として示したのだ。実際私は御中虫と西村麒麟がこれほど親しげなやりとりをしているにもかかわらず会ったことも、見たこともないと言うことを知らなかった。御中虫の罵倒はともかく、西村麒麟の親しげな手紙は、実際、詐欺ではないかと思ったぐらいである。しかし、この時、俳句の世界にコペルニクス的転回が生まれたといって良いであろう。いまそれを覚えている人は少ないが、俳句とは上手に嘘をつくこと――それも徹底的に――だという古人の言葉を本当に実践したのは現代俳句においては麒麟が初めてではなかったかと思う。
[注]右欄の【ピックアップ】の中の、「赤い新撰・御中虫と西村麒麟」参照。「俳句新空間」に先立つ「詩客」に載った「俳コレ」に対する御中虫のユニークな評、御中虫百句に対するこれまたユニークな西村麒麟の評が掲載されている。

 俳句新空間では、BLOGの特色を生かして、膨大な句集特集を行っている。しかしそのほとんどが、西村麒麟の句集(『鶉』『鴨』)、或いは受賞作品集である。なぜこの頼りない若者に膨大な句集鑑賞の機会を与え、また多くの人が句集鑑賞をするのかというのは社会問題として考えなければいけない。
 散文、詩、短歌・・・と言語空間が縮小してゆくときに、表現が不自由になったと見るのは常識的である。しかし、虚偽性という倫理から散文、詩、短歌がなかなか解放されないのに対して、俳句のような短詩(金子兜太は世界最短詩と言ったが)は逆にそうした倫理から解放されている。なぜなら俳句では真実は語れっこないからだ。真実の反対が嘘とすれば、俳句は嘘をつく宿命を負った詩型なのである。そして、そうした俳句の特色を生かして、実に罪悪感なく嘘をついているのが西村麒麟ではないかと思っている。

 だからこの句集特集は、いかに西村麒麟の嘘を多くの老若男女がいかに正当化しているかを知るための社会学的資料だと思っている。
 これは、何も西村麒麟を批判しているわけではない。もはや俳句は、こうした方法でしか新しい世界を獲得できない。現代俳句は、せいぜい、芭蕉の摸倣、草田男の摸倣、重信の摸倣、兜太の摸倣、虚子の摸倣に終始している。この摸倣の世界を破壊できるのは、生まれながらに嘘をつくことの出来る麒麟だと思っている。
 また、これは麒麟の俳句を鑑賞する論者を批判しているものでもない。これらの人はこうした麒麟の本質を十分弁えた上で、教唆犯や従犯でなく、共謀共同正犯として犯罪に荷担する勇気を持っているからだ。言っておくが、この犯罪に時効はない。一旦成立した犯罪は、古典として言語犯罪博物館に永久に陳列される。

0 件のコメント:

コメントを投稿