2018年2月9日金曜日

【新連載】前衛から見た子規の覚書(11)東大は早稲田に勝てない 筑紫磐井

子規は小説を持って文学を代表させているところがあるので、この項目で文学研究の問題に触れてみよう。子規自身文科大学に在学し文学の勉強をする一方、坪内逍遙を介して東京専門学校とは縁があった。そのため比較しやすかったこともあろうが、文科大学(現在の東京大学)と東京専門学校(現在の早稲田大学)文学部を対比して評価している。

「前者は国文漢文英文仏文独文の数科あれども後者は混然たる一文科あるのみなればなり。然れどもその中もっとも重要なる国文学を取りてこれを比較し来たればその体裁上において大学はるかに専門学校に劣りたるを見る。専門学校の課程を見ればいやしくも文学に関する者は古今と雅俗とを問はずことごとくこれを網羅するの傾きあり。然るに文科大学の国文学なるものは古文学にのみ趨りて絶えて近世文学の科目あることなし。」(「学校」。以下同)

しかし学生の質がよいと言っているのではない。子規自身は文科大学に在籍したのだから、自らを卑下するはずがない。

「一般に学生の学識と品格とを評すれば専門学校ははるかに大学に下れり。」

この結果改良すべきは文科大学なのだと主張している。

「専門学校に向かって俄かに学生の地位を高尚ならしめよといふは実に卵を見て時夜を求むるが如く無理難題たるを免れず。・・・然れども大学に向かってその学課を改正せよと望むは前者に比してはなはだ容易なるものなれば余は先づこれよりして始めんとするなり。
すなわち文科大学国文学中に近世文学の一科目を加ふることこれなり。而してこれを実行せんとするには近世文学の教員を聘し近世文学の書籍を備ふるの二事をなさざるべからざるなり。」


まとめ
以上のような文学各ジャンルに対する認識の下に、子規は文学意識から遅れていた俳句、和歌の改革に乗り出したと言ってよいだろう。ただし、小説や散文については難しいものがある。子規自身に、子規の俳句や和歌に匹敵する傑出した作品があったわけではないから、子規の写生文の提唱は俳句の「獺祭書屋俳話」や和歌の「歌詠みに与ふる書」とはずいぶん違ったものとならざるを得なかった。この点については後述しよう。
こうした相違点を踏まえながら、子規の文学活動を総括すると次のようになる。

①子規は、文学意識を持たない前近代的な創作態度を厳しく批判した。そこには倫理的嫌悪感に近いものさえ感じる。
②こうして展開された改良運動は結局のところやがて近代的な写実(写生)的技法に収束されるが、一方でジャンルごとに特有の空想的技法を排除はしなかった。
③運動の展開に当たって、子規自身が意識したかどうかは別に戦略的な方針をとり、例えば俳句にあっては反芭蕉的(親蕪村的)な主張、短歌にあっては反古今集的(親万葉集的)な主張を取った(散文にあっては、親写実的(反文飾的)な主張となるがそれについては後述する)。
④にもかかわらず、俳句分類に代表されるように膨大な資料やデータを取り扱っている自信から、客観的批評性を維持することが出来た。
このような子規の特徴を踏まえながら、子規の事業(ほとんどが著作となっている)を眺めてみることにしよう。

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