2016年2月5日金曜日

「芸術から俳句へ」(仮屋、筑紫そして…) その4 …筑紫磐井・仮屋賢一 



7.筑紫磐井から仮屋賢一へ(仮屋賢一←筑紫磐井)
the letter rom Bansei Tsukushi to Kenichi Kariya

感じとして仮屋さんのお考えはかなり私の考えと近いと思っていますが、あまり鼻からそう思い込むと議論にもなりませんし、むしろ微妙な感覚のずれ、論理の運びの差があるほうが生産的だし、今後の勉強にもなるだろうと思います。

お互いに寛容の一線は譲れないと思いますが、「社会性俳句は俳句か」なんてどうでもいいはずという点について考えてみたいと思います。

たぶん聖人君子、御釈迦様の目から見れば全くそうだと思いますが、こうした論争をしているのは賛成派も反対派も、私も含めて小人ばかりですから、そうした大きな立場に立てない人が論争していると思った方がいいかもしれません。

とはいえ、寛容でない人達の考えも、頭から度し難い因循姑息な人達ばかりではなくて、それぞれの理屈があるのでしょう。せめて善意で考えてみたいと思います。たぶん社会性俳句に否定的な人は、「俳句は美しくあるべきだ」と思っているのではないでしょうか。そこから美しくないものは俳句に入れておきたくないという、至極もっともな考え方であろうと思います。問題は、その「美しい」は主観的な判断ですから、主観的判断から俳句であるかないかを決めていることになります。美しいとは、美の黄金律にかなっているという基準もあるでしょうが、力強いもの、激しいもの、真実をついているもの、情緒ではなくて激情をあたえるもの、あるいは都会的なもの(反田園的なもの)、宗教的なもの、反宗教的なものと拡散して行きます。自己の基準を確立することは作者として大事なことですし、自己の基準で他の作品を批判することも適切なことです。批評行為とはそこに尽きていると思います。「社会性俳句は俳句ではない」と言っても主張としては分かります。問題はかっての俳人協会有志のように、「無季俳句は俳句ではない」と言って教科書出版社に掲載を中止しろと言うようなことが、本当の寛容ではない行為だということです。

私自身、「社会性俳句は俳句ではない」と言っている人達が心から嫌いかと言えばそうではありません。いろいろからかってみたくはなりますが、真面目な態度だからです。

逆説的ですが、むしろ問題は「俳句は何でもアリだ」と言う態度かもしれません。一見真実のようにも思えますし、又私の寛容論にかなっているように見えますが、実は何も語っていないことになります。話し合うべきコアが何も見つからないわけです。若干似ているのが、「俳句って楽しい」と言う言葉です。もちろん楽しくて悪いわけはないですし、大半の人はそう思っているわけですが、しかしそんなことを言われてもどうしようもありません。

本当は、「社会性俳句は俳句ではない」ではなくて、あなたにとって俳句とは何なのかを積極的に語ってもらいたいものです。くれぐれも、「俳句は有季定型の切れ字の入った詩である」なんていう公式見解は言わないでほしいものです(私としては公式ではないと思っていますが)。

各自の独断と偏見の入った俳句観を語ってもらえれば、俳句はもっと面白くも楽しくもなるものだと思います。社会性も独断です、前衛も独断です、新傾向も独断です、子規が行った新俳句(俳句改良、月並批判)さえ独断です、虚子の伝統も間違いなく独断です、客観写生も独断です、抒情派も独断でしょう、芭蕉のわびもさびも明らかに独断です。山本健吉の挨拶も独断です。巨大な俳句と言うジャンルはその中に納まりきれませんから。逆にすべてを飲み込んでいます。だから楽しいのです。

もっとも、俳句は技術を伴いますから、どんな立派な俳句観を持っていても、全然見当違いな作品を提示する人は別の意味で批判されるでしょうが。

   *    *

等と思っていますが、さて、音楽やその他芸術に比べるとどうでしょうか。


8.仮屋賢一から筑紫磐井へ(筑紫磐井←仮屋賢一)
the Letter from Kenichi Kariya  to Bansei Tsukushi 

筑紫さま

「俳句とはこうあるべきもの」という枠組みを先に定めるのではなく、あくまで個々の独断と偏見の集合として(≠最大公約数)俳句は規定されるべきなのでしょうね。俳句に限らず創作活動をする目的にはその対象を規定したいということもあるのでしょう。しかし実作者としては何か規準がほしいわけで、これは独断と偏見でしか選択できないものなのでしょう。

「各自の独断と偏見の入った俳句観を語ってもらえれば、俳句はもっと面白くも楽しくもなる」ということに関してですが、同感です。様々な俳句観が飛び交っていても、俳句という枠があるから秩序が保たれているのでしょう。俳句とは何なのか、実際にはよく分からないけれども、俳句という枠組(名前)があることに甘んじていればよいのです。

 藝術の発展は、それぞれの枠組みの危うさというところから生ずるような気がします。破壊しようとすればすぐに崩れ落ちてしまう。俳句だってそうでしょう。そういった状況下で、積極的に破壊しようとする人がいてもいい、一方で、枠組みが崩れないようにいろいろな方策を打ち出す人もいる。もちろん、保守の人もいたらいい。

 ただ、日本人には破壊というものにあまり馴染みがないのかもしれません。音楽の発展だって、幕末期から明治期にかけて西洋の音楽が入ってくるまでは、枝分かれはあるにせよ、過去の否定から新しいものを生むという流れはなく、今に至る流れをそのまま順方向に発展・展開させてゆくというようなものであったはずです。そもそも、音楽は独立して存在しておらず、宗教的なものあるいはある芸能を形成する一要素としてのものでありました。だから、時代が変われば、新たな芸能が生まれ、それに付随して音楽の需要が変わる。変わったとしても、過去の否定や肯定ということではなく、新たに出現した芸能に対して、音楽の部分部分が相応・不相応という点で判断され、結果的に新たな音楽ができたり展開されたりしてゆくということになったのでしょう。

 西洋のものが流入してきて、ようやく価値観も変わり、堂々と否定することもするようになりましたが、やはり性格上、怖さを拭い去れないのかもしれません。音楽や絵画であれば、取り組む人口も世界規模で多く、言語上の障壁を気にしなくてよい部分も多々あるので(とは言いつつ、「音楽は世界共通語」などという主張は大反対ですが)、自分が破壊しても、誰かが枠組みを守ってくれるだろうという部分があるのでしょう。だから、思い切って破壊できる。一方で、俳句はそういう安心をしづらい部分があるのではないかと思います。本気で破壊しようとしたら、本当に崩れ落ちてしまうのではないか、と。

 杞憂だとは頭でわかっていても、なかなかできないのでしょう。こう言っていて、本当に杞憂なのかな、なんて不安がよぎりもしてしまいますし。そして、そういう不安を蹴散らして破壊をしようとする人がいても、今度は周りが臆病だから、必要以上に批判したり、あるいは無視したり、俳句の枠組みの外に出そうとしたりしてしまうのかもしれません。そういう原因としては、俳句に携わる絶対的な人数が少ない、などといったことが挙げられるのでしょうか。

 俳句は藝術であるくせに、自らの枠組みの危うさを怯えてしまっている。そういう部分があるのかもしれませんね。そして、それが藝術としての弱さにつながっているのではないかな、なんて思ったりもします。弱さ、というのは、展開・発展の可能性を、自ら狭めてしまっているのではないか、というようなところでしょうか。

 もっと、様々な独断と偏見が、いま現在の俳句界に存在するであろう「俳句の評価」という枠組みとは関係ないところで堂々と林立すべきなのです。じゃないと、藝術としての面白さを俳句は捨ててしまうことになるのではないでしょうか。




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