筑紫:
①山頭火的手法
話が花尻氏から離れて行きますが、ご質問の前半について言えば、私は、山頭火の言葉の処理の仕方に興味を持ったという方が適切でしょう。その意味では、「沈黙」でも、「音」でも、余り変わりはないと思っています。
正直に言えば、注目したかったのは、「古池や」を切り、「蛙」を切り、「とびこむ」を切り、「水の」を切ることであり、「音」が残るかどうかはあまり関心がありませんでした。この方式でやれば「音」が消えてもおかしくはないかもしれません(「沈黙」の一歩手前が「音」ですから)。これは私の創造だと思います。ちょっと屁理屈めいて聞こえるかもしれませんが、正直、山頭火の結論が正しいとは思っていないからなのです。
そもそも、山頭火が「音」の句と言ったとして、あるいは私が理解した「沈黙」と言っても、芭蕉自身がそれらに納得するとも思えません。両方とも、それぞれが描く芭蕉のイメージに合わせた仮説に過ぎませんから。
私が思うのに、山頭火が、芭蕉の句(古池や蛙とびこむ水の音)を「音」の句と言ったとしても、偶然この句を取りあげたから音の句になったようにも思えますが、別の句を取り上げれば、また別の「?」の句になるわけです。例えば、
白扇やあるかなきかの水の色 長谷川櫂
長谷川櫂氏の最新句集『沖縄』(2015年9月16日青磁社刊)の一句ですが、なかなかいい句です。この句の分析を山頭火の処理方式でやることは不可能ではないと思います。
白扇やあるかなきかの水の色
―――あるかなきかの水の色
――――――――――水の色
――――――――――――色
その結果は、「色」となるわけです。もちろん、作者が言ってもいないことを演繹するのはおかしいという批判もあるでしょうが、成り立たない論理ではないからです。そして、こちらの方が少しましだと思うのは、山頭火に、
――――――――――音
という句はありませんが、「色」には、歴とした、
いろ 青木此君楼
という句があるからです。これはすでに前回述べていますね(「BLOG俳句新空間」2015年9月18日「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・その12」筑紫磐井、11月27日「字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ(その1)」中西夕紀・筑紫磐井)。
だから花尻万博氏の句を取りあげて言いたかった点は、何かが残ったというよりは、山頭火と逆のプロセスでありますが、追加削除を繰り返すことによる俳句の分析法があり、自由律という考え方さえ許容すれば、その過程で生まれる作品の価値を無視できないということなのです。
②消費的傾向
『関西俳句なう』について、「消費的」と言う批評が余り批判を受けなかったのは幸いでした。どうも的確に表現できているかどうか分からなかったからです。まあ、ただ、堀下さんとの対談ではしばらくこの言葉を使っておくことにしましょう。問題があればまた新しい言葉を考えます。
問題は、「消費的傾向」と対比した「自己規律的表現」が判らないと指摘されています。これも適切かどうかはありますが頭の中にはこんな考えがあります。これは現状と言うよりは、比喩的ではありますが過去の例から見て頂くと多少意味するところも分かるでしょうか。
昔、内藤鳴雪と言う俳人がいました。松山藩士で子規が東京の松山藩の寮に在籍したときの寮監を勤めていたのです、当然子規よりはるかに年上ですが、その後子規に俳句入門し高弟として遇されました。古風な作家で、句会で俳句に「武者一騎」と入れると必ず取ってくれたということを水原秋桜子が語っています。
これほどはっきりはしていませんが、能村登四郎も言葉の偏りがあり、特に「白地」などという季語は、自ら好んで使うだけでなく、登四郎が主宰をしていた「沖」の句会や雑詠で頻繁に登場していました。作った若い会員が、白地を着たり、知っていたとも思えないのですが、盛んに登場していました。
単に作者の言葉の趣味が、結社に乗り移っただけのようにも思いますが、結社と言う共同体が存在することによって生まれる独特の表現であると思っています。これを「規律的表現」と考えました。結社によりけりですが、求心力の強い、つまり優れた作家が主宰する結社ではこうした「規律的表現」が発達します。規律的表現を習得して行くことが俳句修行の一つになって行くことさえあります。「沖」や「鷹」ではそうした傾向が強かったのではないかと一方的に思っていますが、案外俳句結社全体に共通していることかもしれません。
規律的表現は結社に由来するものですが、これを是とし、俳句全般の方法論として深める場合、「自己規律的表現」となって行くと思います。結社を超越して、作家自身がある理念や価値判断のもとで求心力を持って作品を発展させる際の特徴です。その特徴は、排他的表現となることであり、むしろ求道的な傾向を帯びてきます。言っておきますが、これは傾向と言うより態度だといった方が正しいかもしれません。
こうなってくると、「自己規律的表現」は「消費的傾向」と明らかに違ったものとなってくるように思います。私が、前の論で言ったのはこんなことでした。
私は戦後生まれ作家の多くは、「自己規律的表現」を持っていたか、そこを通過した作家ではないかと言う気がしているのです。もちろん、様々ですからこれに当てはまらない作家もたくさんいます。しかし、私の同世代を見るとこうした人たちがたくさんいて(隣で私と対談している中西夕紀さんなどもそうで)、私自身もある時期は、「自己規律的」であったことは間違いないと思います。
これに対して、『関西俳句なう』はこうした「自己規律的」な感じをあまり受けませんでした。あるいは、旧世代の「自己規律」とは別種の新しい「自己規律」を持っているのかもしれませんが、それならばそれで比較対照するのに有効な材料だと思います。
私は、「自己規律的表現」の由来するものは、結社と言う存在ではないか(結社にいる人が必ずしもすべて自己規律的になり、そうでないとならないというわけではありませんが)と言う気がするので、それはそれで社会学的にも面白い現象だと思います。
余計なことを言いますが、私と対談している堀下さん自身は、どちらかと言えば新世代でありながら「自己規律的」なのではないかと思っていますが、ご本人がそうでないと言われればそれはそれで再考致します。
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話を展開するために一言言うと、「時代の空気感」はいいですね。「クプラス」の座談会よりはるかに本質をついている言葉だと思います。社会性俳句は社会性俳句時代の「時代の空気感」、前衛俳句時代は前衛俳句時代の「時代の空気感」、龍太や澄雄により復活し始めた伝統俳句復活の時代はその時代の「時代の空気感」があったと思います。それは、読まれた作品の内容や意味とは少し違うものであると思います。私が俳句を始めたころの意識は、龍太、草間時彦、能村登四郎などが匂わせた「時代の空気感」を感じ、その結果、「沖」という結社に入ってみたのですが、3人は共通の「時代の空気感」を漂わせていたように思います。
よく喫茶店でボーっとしていることがありますが、頭の後ろで、いろいろな会話が飛び交っています。若い男女が長い話の中で少しとげとげしくなり、女性が「キライ!」と言ったりします。これは決して「I hate you!」ではないと思います。「好きなのに・・・」という一種の空気感が漂っていることを感じないと状況は理解できません。だからこそ、仲良く喫茶店を出て行くのです。残された私も、少し幸福感に包まれています。
これが何なのかは難しいところがありますが、空気感は論理ではないだろうと思います。ある単語への関心、論理矛盾や韜晦、ナンセンスさまざまなものがないまぜになっています。こうしたものを感じ取ることが、とりわけ消費的傾向の鑑賞には必要に思えます。
関西俳句なうで注目した人に手嶋まりやがいますが、
炎天に傾くボトルシップかな
春コート着て淋しいと誰に言おう
白椿人は静かに会釈をし
などには、私は他の作家に比べて「時代の空気感」を強く感じてしまったものです。ただ堀下さんの論を読んでいると、これは私が感じた「時代の空気感」であって――例えば私が30年以上前に龍太や登四郎、時彦に感じた時代の空気感であって――現代の「時代の空気感」ではないのかな、等と迷ってきます。ご意見をいただければありがたいです。
舞踏家笠井叡氏の批評に対するスタンス。
返信削除しごく真っ直ぐでうらやましいところがあります。
ttp://www.akirakasai.com/jp/blog/2016/02/28/%E7%AC%AC%EF%BC%94%EF%BC%97%E5%9B%9E%E8%88%9E%E8%B8%8A%E6%89%B9%E8%A9%95%E5%AE%B6%E5%8D%94%E4%BC%9A%E8%B3%9E%E8%BE%9E%E9%80%80%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/