◆万華鏡の如き光や日向ぼこ (岩沼市)佐藤久子
長谷川櫂の選である。「万華鏡の如き」という直喩表現であり、見立ての句である。季題「日向ぼこ」で、いわゆる結果が出ている作り方なのである。が、中七の終りの切れ字「・・や」によって強い切れが生じて、上五中七と座五の季題「日向ぼこ」を別ものと考えてもいいかも知れない。そうすれば、上五中七でいう光の中に作者は存在しないで、その光を「日向ぼこ」しながら距離を置いて見ている風になろうか。
◆従業員これで全員朝焚火 (栃木県壬生町)あらゐひとし
長谷川櫂の選である。中七の「これで」が素晴しい。「これで全員」の表現にファミリー主義の会社の在り様が見えてくる。いかにも暖かく、「焚火」に暖をとる全員の個々の表情まで見えて来るようだ。暖かさの表現であり、それは「焚火」より暖かい心の在り様なのだ。
◆ねんねこの中の宝を預かりし (東京都)蜂巣厚子
大串章の選である。「宝」はなんであろう。常識的に考えれば、「赤ちゃん」であろう。上五の「ねんねこの中の」であるから。屁理屈を言えば「預かりし」たのは「宝」であって「ねんねこ」ではない。「ねんねこ」から取り出して預かった訳ではあるまい。ただ、「宝」だけに特化して意識を集中したところが詩的表現なのである。
◆塩振らぬ結びのやうな秋の果 (焼津市)下村直行
金子兜太の選である。筆者が想像するに、きりっとしない、何処と無く切れ味の悪い「秋の果」を上五中七の措辞で言いたかったのであろうか。塩気の無い握り飯であるから、あとから味噌でもつけて焼くつもりなのかと想像を膨らませてしまったものである。握り飯の作り方で、「塩振る」という表現は特定の地方の表現であろうか?「振る」についての「まきちらす。ふりまく。」の意釈は、『広辞苑』にもみられるのだが、出来上がった握り飯に塩を振りかける訳ではあるまい。塩を手に取って握り飯の表面に付けながら握って仕上げるのだろう。
その九十六(朝日俳壇平成27年12月7日から)
◆岬畑に藻を鋤き込みて冬耕す (大阪市)田島もり
大串章の選である。些か説明調の感があるようだ。季題の「冬耕す」は、周知のように来る春からの作物を育てる時期に向けた、畑の土壌を豊かにする意味合いで使用されるものだ。または害虫の駆除にも、ということだ。岬という海に近い土地柄で、海産の藻を鋤き込むのだから当たり前と言える事柄だが、藻の鋤き込みが季題「冬耕す」に適合している。他の季節には似合わないであろう。
最近はヨーロッパなどで海藻を同じく畑の土に混ぜたり、肉牛の餌に海藻を混ぜたりしていると聞く。抗生物質を餌に混ぜて病害を予防する代わりに、ヨードつまり自然のものである海藻を混ぜているのだ。これもまた有機農法なのであろうか?
◆着るものにもう迷ひなし冬に入る (藤沢市)小田島美紀子
稲畑汀子の選である。評には「一句目。季節の推移の中で寒さが定着すると、迷うこともなくコートを着る。冬ならではの感じ方。」と記されている。防寒としての「着るもの」に焦点を絞って評している。がそこは現代である。コートも色々と所持しているし、冬物も同様に沢山お持ちであろう。どちらかというと季題「冬に入る」において、視界の色合いがそのヴァリエーションを少なくしてモノトーンにも似た色合いに統合されつつ、「着るもの」の選択に「迷ひなし」と言っているのではないか。寒暖の変化ゆえの迷いではなくて、衣装持ちの方の迷いなのではないかと、愚考する。立冬の時期であるからまだまだ寒暖の差はあろうかと思われるからだ。
◆穴に入るときはまつ直ぐ穴惑 (半田市)石井雅之
金子兜太の選である。「まつ直ぐ」は見てきたような叙法である。穴だから土の中は分らないだろうに。・・とすれば心象の句意に解釈した方が良いだろう。
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