俺、ときどき思うんだけど、恋愛をするという行為は、人が一杯いる中で二人きりになろうとする行為じゃない? だから、恋愛は良いことなんだけど、もっと大きな目で見れば、ほとんど2人で破滅しようという行為に近いなと思って。絶対、その2人だけでは成立しないものが生まれてくる。「そのことを知っていて尚、なぜ人は恋愛をするのか?」というのを考えることがある。
そうすると、恋愛は良いこととばかりも言えなくて、わかっていながらそこに入り込む、破滅に向かう運動だという感じがあるんですよ。 (岩松了「対談:岩松了×若手写真家 第1回●中村紋子/世間に対してどう立ち向かっていくか?」2009/10/13)
失敗において表現されることにこそ、むしろ、主体の真実がある。…本気のラブレターの文体は、常にどこか乱れている。(大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ-3・11後の哲学』岩波新書、2012年、p.235)
恋愛の如(ごと)く吾(わ)が子と抱(いだ)きあふ 川上弘美
(川上弘美『句集 機嫌のいい犬』集英社、2010年)
〈恋愛〉の〈ように〉じぶんの子と抱き合っています。
それは〈恋愛のようなもの〉ではあるけれど、決して〈恋愛〉ではない。この句における「如く」が、その歴然とした〈隔たり〉になっています。
「吾が子」なので、〈恋愛〉はできない。けれども、その〈ように〉抱きあっている。
この〈恋愛の(ような)抱擁〉は、川上弘美のデビュー作『神様』においても、とても印象的に描かれています。
「抱擁を交わしていただけますか」
くまは言った。
「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」
わたしは承知した。
くまは一歩前に出ると、両腕を大きく広げ、その腕をわたしの肩にまわし、頬をわたしの頬にこすりつけた。くまの匂いがする。反対の頬も同じようにこすりつけると、もう一度腕に力を入れてわたしの肩を抱いた。思ったよりもくまの体は冷たかった。
(川上弘美「神様」『神様』中公文庫、2001年、p.17)
くまは傘を地面に放り、体でわたしを包みこむようにして地面にうずくまった。……
「怖くないですか」くまが静かな声で聞いた。……
こわい、とわたしは思った。かみなりも、くまも、こわかった。くまはわたしのいることをすっかり忘れたように、神々しいような様子で、獣の声をあげつづけた。
(川上弘美「草上の朝食」『神様』中公文庫、2001年、p.186-7)
「わたし」は「くま」と身体的に接触するたびに、「思ったよりもくまの体は冷たかった」や「こわい、とわたしは思った」のように、「わたし」がふだん感じている「くま」への〈親愛〉の情が身体をとおしての思いがけない〈違和=異和〉としてずれてしまう。
松本和也さんがこの「神様」についてこんなふうに指摘をしています。
つまり「神様」とは、露骨な差別の視線・言葉をも抱えこみ、その上で類を異にする他者同士──「わたし」と「くま」のコミュニケーションの可否を問うた、その意味で実に問題含みの小説でもあるのだ。あわせて、類を異にするものとしてまなざされる「くま」の潜在的な危険性や、「くま」と散歩に出て抱擁まで交わす「わたし」のコミュニケーションへの勇気も同時に読みとっておくべきだろう。(松本和也「川上弘美の出発/現在」『川上弘美を読む』水声社、2013年、p.28)
ここにあるのは「親しい人」である「くま」との〈抱擁〉という身体的コンタクトでありつつ(「類」)、それがあたかも〈恋愛〉のベクトルを向きながらも、しかし〈恋愛〉化できない〈恋愛のようなもの〉としてのズレ(「異」)だとおもうんです。
〈恋愛〉になろうとしたしゅんかん、〈恋愛〉ではなく、〈恋愛のようなもの〉がたちあがってくる。おおいなる〈如く〉としての〈ようなもの〉。
たとえば川上さんのこんな句。
接吻(せつぷん)や冬満月の大(おほ)きこと 川上弘美
ここで「接吻」の〈隔たり〉としてあらわれてくるのが、大きい冬の満月ではないかとおもうんですね。かんたんにいえば、キスに集中してないわけです。ここでもキスをしているから形式的には恋愛をしているんだけれども、キスに集中していない点においてそれはやはり〈恋愛のようなもの〉になってしまう。〈接吻〉は「ようなもの」にしかなれず、〈中断〉されてしまう。接吻、のようなものとして。
メザキさんが両手で頬をつかみ、真剣に接吻してきた。
メザキさんたら。接吻の最中に言った。…メザキさんはすぐにこちらの顔をひき寄せなおし、接吻をつづけた。やたらに強く吸ってきた。…サクラさん。すきだ。メザキさんが真剣な調子で言った。ほんとかなあ、ほんとなの。聞くと、メザキさんは接吻をやめて頭をかかえた。両手に顔をうずめるようにした。…頭をかかえる姿勢のまま、メザキさんは眠っていた。(川上弘美「さやさや」『溺レる』文春文庫、2002年、p.20)
この川上弘美の短編における〈接吻〉も「真剣」にもかかわらず、二回も頓挫=中断がはいります。しかも「すき」かどうか、〈恋愛〉かどうか、という「ほんと」を問うたがために。〈恋愛〉が〈恋愛のようなもの〉に接ぎ木される。
ところで、「抱きあふ」や「接吻」は〈恋愛〉というコードを誘うものですが、たとえば、「目の中」を「舐め」るという行為なら、〈恋愛のようなもの〉ではなく、〈恋愛〉になっているのではないかと思わせる句もあります。
舐めてとる目の中の塵近松忌 川上弘美
近松門左衛門といえば、〈心中〉です。
(近松門左衛門『曾根崎心中』は)「世話事の最初」とあるのに読者の注意をお願いした。「世話」とは「世間話」のことである。新聞で言えば三面記事、あるいはゴシップ。殺人とか盗みとか放火、不倫や心中などである。そういうものを題材にした芝居は、世話事とか世話物、それが浄瑠璃なら世話浄瑠璃と言う。
ところが浄瑠璃は、元来そういうなまなましいニュース種などは題材にしてこなかった。浄瑠璃が扱うのは、浄瑠璃姫と牛若丸の恋だとか、平家の残党景清の奮闘とか、歴史や伝説の世界であった。……
近松は、浄瑠璃の世界に、心中というなまな現実を持ちこんだ(松平進『近松に親しむ』和泉書院、2001年、p.83)
この句が〈恋愛〉かどうかはわかりません。近松門左衛門には、死に場所まで歩むお初と徳兵衛の〈道程(プロセス)〉を描いた浄瑠璃作品『曾根崎心中』がありますが、〈心中〉を彷彿とさせる「近松忌」、 鈴木清順の映画『ツィゴイネルワイゼン』でも観られたような〈舌〉と〈目〉という粘膜同士のつきあわせによる〈合一〉、しかし塵をとるために舌で目を舐めるという倒錯的な行為によって可傷性がうまれ、リスキーな〈死〉の香りもします。
ただこの句には〈ためらい〉は、ない。〈如く〉や〈満月への視線変更〉などの〈転位〉はない。『曾根崎心中』のラストのふたりの心中の場面、「二三度ひらめく剣の刃、あっとばかりに喉笛に、ぐっと通るか「なむあみだ、なむあみだ、なむあみだぶつ」」のように心臓にナイフをつきたてるように、舌を目にさしこんでいる。〈恋愛のようなもの〉というぼんやり感はありません。〈のようなもの〉になりきれないものであれば、かえって〈恋愛〉のようになってしまうという逆説。
もちろん、この近松忌の句が〈恋愛〉句であるといいきることはできないし、いいきることに意味もないのだと思うのですが、大事なことは〈合一〉は、恋愛の枠組みがなければためらいがなくなるのではないか、ということなのだと思うのです。
川上弘美の句において、〈恋愛〉をしようとすれば、それは〈のような恋愛〉ではなく、〈恋愛のような〉になってゆくということ。
ひとは、子は、くまは、〈のような恋愛〉をへて、いったい《どこ》へゆくのか。
じっさい、『神様』のラストでわたしはくまに手紙を書いたものの、投函できませんでした。これもひとつの〈手紙のような〉=〈恋愛のような〉です。
何回書き直しても、くまのようなきちんとした手紙にならなかった。最後まで名前のないくまだったと思いながら、宛先が空白になっている封筒に返事をたたんで入れ、切手をきちんと貼り、裏に自分の名前と住所を書いてから、机の奥にしまった。
寝床で、眠りに入る前に熊の神様にお祈りをした。人の神様にも少しお祈りをした。ずっと机の奥にしまわれているだろうくま宛の手紙のことを思いながら、深い眠りに入っていった。(川上弘美「草上の朝食」『神様』中公文庫、2001年、p.192-3)
「手紙」ではなく、「手紙のようなもの」にしかなれなかった〈手紙〉。「あるようなないような」はっきりしない〈恋愛のようなもの〉をわたしたちがしているのだとしたら、どうしたら、いいのか。
川上弘美の小説においては〈恋愛〉はあいまいもことしたふかしぎなものです。
しかし、思い起こしてみれば、つねに〈食べ物〉だけは《固有名》として〈はっきり〉力強く・おいしそうに提示されてきました。
草原の真ん中あたりまで行くと、くまはバスケットの中から敷物を取り出して広げた。……
鮭のソテーオランデーズソースかけ。なすとズッキーニのフライ。いんげんのアンチョビあえ。赤ピーマンのロースト。ニョッキ。ペンネのカリフラワーソース。いちごのバルサミコ酢かけ。ラム酒のケーキ。オープンアップルパイ。バスケットから取り出して並べながら、くまはひとつひとつの料理の名前を言っていった。
しゃれてるね、と言うと、くまはちょっと横を向き、おほんと咳払いした。
(川上弘美「草上の朝食」『神様』中公文庫、2001年、p.178)
うまい蝦蛄(しゃこ)食いにいきましょうとメザキさんに言われて、ついていった。
えびみたいな虫みたいな色も冴えない、そういう食べ物だと思っていたが、連れていかれた店の蝦蛄がめっぽう美味だった。殻のついたままの蝦蛄をさっとゆがいて、殻つきのまま供す。熱い熱いと言いながら殻を剥いて、ほの甘い身を醤油もつけずに食べる。それで、というのでもないが、時間をすごした。帰れなくなった。……
しょうことなく、メザキさんと並んで、いくら行っても太くもならないし細くもならなら道を、長く歩いた。(川上弘美「さやさや」『溺レる』文春文庫、2002年、p.9-10)
川上弘美の小説では、〈食べ物〉がにんげんやにんげんのようなものたちを〈恋愛のようなもの〉を超えて〈媒介〉するのです。
だから、「はつきりしない人」に出逢ったときは、どうすればいいのかとこの句集でちゃんと示されています。それは、
はつきりしない人ね茄子投げるわよ 川上弘美
愛は、関係の中で最も単純な関係についての、つまり差異についての体験である。そして、その最も単純な関係とは、それ自身、関係の不可能性──相互に架橋しうる場をもたない絶対の差異──なのである。要するに、恋愛は、自らの不可能性というかたちでしか存在しえないのだ。
(大澤真幸「「これは愛じゃない」」『恋愛の不可能性について』ちくま学芸文庫、2005年、p.26)
「熊の神様はね、熊に似たものですよ」くまは少しずつ目を閉じながら答えた。
なるほど。
「人の神様は人に似たものでしょう」
そうね。
「人と熊は違うものなんですね」目を閉じきると、くまはそっと言った。
違うのね、きっと。くまの吠える声を思い出しながら、わたしもそっと言った。
「故郷に帰ったら、手紙書きます」くまはやわらかく目を閉じたまま、わたしの背をぽんぽんと叩いた。
書いてね。待ってる。
それ以上何も言わずに、くまとわたしは草原に立っていた。……
くまはこのたびは抱擁しなかった。わずかに離れて並んだまま、くまとわたしはずっと夕日を眺めていた。
(川上弘美「草上の朝食」『神様』中公文庫、2001年、p.187-9)
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