今回、堀下―筑紫の対談「評論・批評・時評とは何か?」で少し置き去りにした話題を、新しい参加者に語ってもらいました。ページを1~2か月前に戻って見直してみてください(「その6」参照)。
そもそもの発端は、堀下発言「(文学の研究にあっては)まず最初に教えられるのは「作者の死」」であり「ロラン・バルトが1960年代末にこれを宣言して以来、文学研究に作者の伝記的事実は不要である、というのは常識的な言説になっている」、しかしバルトの説は「日本の俳句の世界ではまったく浸透していない」ようだ、ついては「(バルトの理論の)世界での受容度はバルトフォロワーの福田若之なら分かるんじゃないか」から始まります。
以後、それはすっ飛ばして「俳句は文学か」という、虚子、波郷、健吉以来の御定まりの議論のコースが始まりますが、迷路に入る前に、ここで遅ればせながら堀下氏が勧めた「バルトフォロワーの福田若之」に聞いて見ようという企画をご協力により本当に実現することにしました。まずは、ゆっくりと読んでみてください。 (筑紫)
【福田若之から筑紫磐井へ】
the Letter from Wakayuki Fukuda to Bansei Tsukushi
1.バルトフォロワー?
・・・堀下君は僕のことを「バルトフォロワー」だと紹介してくれていましたが、この呼称はとりあえず返上しておきたく思います。「フォロワー」という言葉をどう捉えるかによるのかもしれませんが、僕は自分のことを「バルトフォロワー」だとは思えません。一方では、上手く説明することができないのですが、この語自体に、バルトの著作を読むことにあまり似つかわしくないニュアンスがまとわり付いているように感じられます。他方では、多くの人がバルトのテクストを読み、それらについて語っているなかで、僕がこのレッテルの代表のように振舞うことなど、とてもできないと感じます。とにかく、この語は、堀下君によって、たしかに僕のことを指し示して書かれたのかもしれないけれど、僕には、そのようなものとして立ち現れる僕のことを自分自身だと思えないということです。少なくとも、ここから先は、そういう人間の書いたものとして読んでいただきたいと思います。
2.「作者の死」の受容
さて、「作者の死」について、堀下君のほうでは、「バルトの理論がどれほど実際的に普及しているのか」、「世界での受容度」が知りたい、という話でしたね。日本や欧米での受容についてならまだしも、たとえば、日本を除くアジアやアフリカなどでの受容となるとほとんど全く知らないというのが正直なところです。
とりあえず、バルトの「作者の死」を純粋に理論として受け取っている研究者がいちばん多いのはおそらくアメリカではないかと思います。アメリカでは、ほかにも、構造主義からポスト構造主義あたりのフランスの現代思想が、もっぱら理論として受容されてきました。やはり、思想の主流は道具主義的なのでしょう(ただし、もちろん、多くの例外があります。バルトについては、たとえばスーザン・ソンタグのいくつかの文章)。この道具主義的な受容のもとでは、「作者の死」は、しばしば、フーコーの「作者とは何か?」と対になって語られます。
ヨーロッパに目を移すと、「作者の死」を含むバルトの思想全般について、けっこう批判的な声も聞こえます。イギリスやフランスで活動したブラジル生まれの思想家、J.G.メルキオールの『現代フランス思想とは何か――レヴィ=ストロース、バルト、デリダへの批判的アプローチ』(原題:From Prague to Paris : A Critique of Structuralist and Post-structuralist Thought)などはなかなか痛烈なものです。また、ユルグ・アルトヴェーグとアウレル・シュミット(彼ら自身はバルトのもろもろの著作を好意的に見ていますが)の『グラウンド・ゼロ 現代思想の震源地』の、序やロラン・バルトを扱った一章などを読むと、少なくともある時期まで、(おそらく西)ドイツでは、バルトを含むフランスの構造主義以降の思想の動向が、決して大勢ではなかったとしても、かなり強烈な批判にさらされていたことが伺えます。
一方で、せっかくですからちょっと色物を紹介しておくと、イギリスの作家、マルカム・ブラドベリの『超哲学者マンソンジュ氏』(原題:My Strange Quest for Mensonge)という小説などは、なんと「作者の死」を実践的に取り入れた試みといえます。あくまでもフィクション、というか、むしろ、よく出来た(ただし幾分ペダンチックな)冗談という感じですから、この小説で「作者の死」を理解しようとするのは難があるように感じますが、ある程度の予備知識さえあればなかなか笑える読み物だとは思うので、興味があればぜひ。
では、フランスではどうか。ここがいちばん肝心なのですが、フランスの人が書いたもののなかでは、バルトは理論家というよりも批評家、作家、もの書きなどとして語られることが多いように見受けられます。文学研究の(そして文学的実践の)分野では「作者の死」もよく知られているには違いないですが、おそらく、それはバルトの最も重要な仕事とは考えられていません。
日本でも大きく取り沙汰された時期はあったと伝え聞きますが、どのように受けとったかは人によってまちまちのようです。蓮實重彦『物語批判序説』では、フローベール『紋切型辞典』とのかかわりから、「作者の死」を「作者は死んだ」という紋切型のテーゼへ単純に変換して取り扱ってしまうことに対する批判が繰り広げられています(中でも、「作者の死」を読んだ(あるいは読まなかった)人たちは「作者が死んだ(のか?)」と騒いだけれど、当のバルトは「作者の死」で、決して「作者は死んだ」と手放しで断言したりはしていないという旨の指摘は、とても重要であるように思います)。
こうしてみると、「ロラン・バルトが1960年代末にこれを宣言して以来、文学研究に作者の伝記的事実は不要である、というのは常識的な言説になっているのだ」というのは、ひとまずアメリカを中心とした道具主義的な受容についての指摘だと言えそうです。
3.「作者の死」よりも前に
ですが、ここで、「作者の死」を「文学研究に作者の伝記的事実は不要である」というようなことの宣言として把握すること自体を、考え直してみる必要があると思います。
まず、全体の印象から言えば、そもそも、「作者の死」の文章には、教条的な宣言というよりは状況の記述という感じが強く見受けられます。すなわち、文学的なスローガンというよりは、当時の状況を歴史的な流れの上に位置づける試みとして読むほうが自然であるように思います。それによってバルトは過去の営為と現在の状況の両方に対してひとつの説明を加えているという風に読めます。
さらに言えば、実は、そもそもバルトの「作者の死」よりもずっと前から、「文学研究に作者の伝記的事実は不要である」というようなことはすでにあからさまに言われています。
たとえば、プルーストの『失われた時を求めて』の執筆は、もともと、「サント=ブーヴに反論する」という批評の草稿からはじまりました。このサント=ブーヴという批評家は、サロンで出会う作家たちの人柄をよく知ることが、その作品を批評する上で重要なことだと考えていました。プルーストは、そこに噛み付こうとしていたのです。それがもとになった『失われた時を求めて』は、書かれたことがすべてであるような小説です。そこでは、書物はもはや作者の人生による説明を必要としません。書かれた物語が書物それ自体を説明するための人生そのものになっているからです。バルトは、かなり若い頃からプルーストの愛読者で、それは彼の仕事の随所に現れています。「作者の死」でも、作者が作品の起源であるというあり方に揺さぶりをかけた作家として、マラルメやヴァレリーと並んで彼の名前が出てきます。
さらに重要なのが、サルトルの『文学とは何か』です。この本なしにはバルトの最初の単行本である『零度のエクリチュール』が書かれることはなかっただろうというくらい、バルトを知る上でも重要な本です。バルトが彼にとっての日本について書いた『記号の国』も、そのタイトルが『文学とは何か』の一節に由来しています。『文学とは何か』は、書くことをめぐる哲学的な考察ですが、それによれば、作品の意味を生み出すのは読者であって、作者ではありません。サルトルの考えでは、読むことには自由があってしかるべきなのです。
ここまでで、もし「作者の死」を「文学研究に作者の伝記的事実は不要である」というようなことの宣言だと見なすなら、その主張は決して「作者の死」に独自のものではないということを、バルト自身の伝記的事実を手がかりにしつつ、しかしながら伝記的事実それ自体を彼が書いたものの根本的な原因とみなすことなしに、こんなふうに(極めて大ざっぱにですが)示すことができたということを確認しておきたいと思います。
たしかに、このことだけでは、バルトの「作者の死」を「文学研究に作者の伝記的事実は不要である」というようなことの再三にわたる宣言のひとつとみなす議論と必ずしも矛盾しません。バルトが、すでに繰りかえされてきた主張を繰りかえすことで、オリジナリティと切り離されたテクストの書き手の仕草を実演し、まさに作者という概念を死に至らしめているというなら、それはそれで一貫性のある読みかもしれないからです。
4.テクストの起源批判
ですが、僕は「作者の死」がどうもそういう文章ではないような気がしています。バルトが「作者の死」を発表したのは1968年です。その前の1967年に、フランスでは思想史上の大きな事件がありました。デリダが『グラマトロジーについて』、『声と現象』、『エクリチュールと差異』の三冊を出版したのがこの年です。これによって、たとえば、ソシュール以来の記号学・言語学が大きく揺さぶられることになります。デリダの批判はさまざまな領域に及んでいますが、僕の理解する限り、これらの著作の中で、デリダは、それ以上遡ることのできない絶対的な起源というものを認めないという一貫した立場をとっています。とりわけ、「差延」や「代補」などの重要な概念はデリダのこの立場と関っているといえるでしょう。そして、「作者の死」には、それにかかわる「起源origine」や「痕跡trace」などのデリダ的な語彙が頻出しています。
デリダによる批判は、『文学とは何か』にも決定的な打撃をあたえるものです。サルトルの議論では、作品の創造を完成させるのは読者であるとしても、結局、作者が作品の起源になってしまっているように読めます。作品を書くのは作者であって、それによって作者は読者に対してメッセージ(それはサルトルに言わせれば作家自身の魂です)を送ります。それを図にすると、次のように表わすことができるはずです。作品は、方向を持った線分です。
作者―《作品》→読者
でも、デリダのような考えを認めると、もうそんなことは言っていられません。
――――《テクスト》→読者
こんなふうに、テクストというのは、あえて図で示すとすれば、終点はあるけど始点のはっきりしない半直線のようなものとして理解されるようになるでしょう。起源は見えません。
以上に照らし合わせると、「エクリチュールはあらゆる声、あらゆる起源の解体である」とし、さらにまた「テクストの統一はその起源にではなく、その宛て先にある」とする「作者の死」は、たとえば、サルトルをデリダ以後のために書き換えたもの、あるいは、ずらしたものとして読むことができるのではないでしょうか。すなわち、『文学とは何か』に見られるような読者論を『グラマトロジーについて』に見られるような起源批判に沿わせたものとして読めるのではないでしょうか。「作者の死」にはサルトルの名もデリダの名も直接には出てきませんが、彼らは、彼らの用いた言葉によって(考えようによっては、名を記されるよりもずっと直接に)このテクストに刻印されています(もっとも、サルトルやデリダにしても、彼らの用いた言葉をどこかから借り受けていたに違いないのですが)。言ってみれば、「作者の死」とは、そういう「引用の織物」なのではないでしょうか。
そう読むと、もはや「作者の死」の主題は伝記的事実の取り扱いなどではなく、書くことと読むことの究極的な起源の不在であるということになります。したがって、この読みにおいては「作者の死」を「文学研究に作者の伝記的事実は不要である」というようなことの宣言だとみなすことはできません。実際、「作者の死」には、直接そのように書かれた箇所はありません。そもそも、話題は必ずしも文学に限定されてはいません(そこにはヴァン・ゴッホやチャイコフスキーの名さえ出てきていますし、重要なところで演劇についての記述がみられます)。すなわち、そうした把握自体が、「作者は死んだ」というのと同様、多かれ少なかれ読みの産物なのです。
テクストは、たしかに作者の伝記的事実や彼を取り巻いた歴史・社会などと合わせて読むことができますし、ときにはそれが必要とされる場合もあります(まさしく「作者の死」の中にそうした読みの具体例がいくつも示されています)。作者の伝記的事実、さらに作者を取り巻いた歴史・社会などもまた、テクストだからです。しかしながら、逆に言えば、それらもまたテクストに過ぎない以上、別のテクストの起源すなわち原因ないし本意とみなすことはできません。「作者の死」では、もろもろの固有名詞が、まさしくその点で慎重に取り扱われているように読めます。たとえば、バルトは『失われた時を求めて』の登場人物シャルリュスと実在の人物モンテスキューとの関わりについて、「シャルリュスがモンテスキューに似せてあるのではなくて、モンテスキューが、その逸話的、歴史的な現実の中で、シャルリュスの、副次的な、派生した断片にすぎないのだ」と言及しています。伝記的事実を抜きにはこのように両者を結びつけることはできないはずですから、ここでバルトがプルーストの伝記的事実を参照しているのは明らかです。しかし、バルトは、まさしくその参照によってプルーストの伝記的事実を『失われた時を求めて』の起源としてしまうような考えから外れてみせています。バルトがここで、「逸話的anecdotique」「歴史的histrique」という形容によって、僕らの語りうる「現実」もまた一種のテクストに過ぎないことを示唆している点には注意を払う必要があるでしょう。伝記的事実を参照しながら、このように書くことができるのです。
したがって、「作者の死」を次のように読み返すことができるはずです――バルト自身がしているように、必要なときには作者の伝記的事実や作者を取り巻いた歴史・社会なども呼び出すことができるし、(「必要」であるというなら、当然のことながら)しなければならないが、今日ではそれはテクストの起源を解き明かすことにはならない。なぜなら、テクストにはそもそも真の起源などないと考えられるようになったからだ、と。
こうなると、「作者の死」はそれほど特別なことを言っているわけではなさそうです。実際、そう特別なことを言っているのではないのだと思います。すごく慎重に、バルトは彼自身が正しいと考えることだけを書いたのではないでしょうか。
【筑紫磐井から福田若之へ】
the Letter from Bansei Tsukushi to Wakayuki Fukuda
ありがとうございます。
堀下さん~福田さんの私信を、無理をいって掲載させていただきました。
とうとつに始まり、とうとつに消えた感じのある「バルト論」にうってつけの方に参入してもらえたと思います(私が福田さんの名前に始めてであったのは、「週刊俳句」の長大なバルト論であったように思いますので正にうってつけでしょう)。しかし参加して頂いた早々で申し訳ありませんが、かといってもともとバルト研究会として始まった連載ではないので、これをはじめから読んでいる読者はいささか戸惑いがちのこともあると思いますので、読者に変わって少し質問させてもらいます。このコラムが本来の流れにうまく戻るように、さらに少しご協力いただければありがたいです。
お話を伺うと、前半(2.)の丁寧な各国の受容についての料理と、後半(3.と4.)の福田さんのユニークな解釈(ユニークというと失礼でしょうか)で、「作者の死」が浮かび上がってくるように感じられました。ありがとうございます。現代文学(?)に関する教養とは思いますが、教科書的に、現代の文学の理解としてこれを習わなければ文学論が成り立たないというものではない(大体どこの文学論?と聞いて見たくなりますが)と感じましたが如何でしょうか。
ついでに素朴な質問をさせてもらえれば、バルトがそうしたテクストで想定しているのは、文学作品なのか(そもそもその文学も何なのか)、ゴッホやチャイコフスキーが出てくるとすると(それでもまだ芸術、美術という理念的なものがまとわってくるような気がしますが)もっと幅が広いものか、さらに(日本の多くの文芸評論家が忌避する)浪曲や雑俳、などが入るのか(当然入っているように思いますが)などについて、何かヒントになる発言はあるでしょうか。
実はバルトを置いてきぼりにしてすでに走っているこのコラムの議論は、「作者の死」よりも、俳句は文学である、文学であるべきである、という考え方の当否の方に移りつつあるのでこんなことを聞かせて頂いたものです。
以下は質問ではなくて感想ですが、つなぎのように書かれている1.も実は興味深いものです。何気ないように見えますが、この文章でも解るように、バルトフォロワーなるものは永遠にバルトから抜け出せないものでしょうが、福田さんは何もバルトに命を捧げたわけではなくて、来たるべき福田若之の完成のためにバルトと伴走しているだけだと思います。福田さんの独自の道は、いずれバルトから分岐するのでしょうが、それがいつかは解りません。私は、3.及び4.(特に4.)は既にバルトから少し離れているのではないかという気もします(ユニークといったのは皮肉ではなくてそういう意味です)。確かにバルトの解釈として正しそうには思えますが、ここまでバルト自身が考えていたのかどうか、門外漢である私には解りません。少なくとも、世のつね言う「バルトフォロワー」とは違っていそうですね。
「作者の死」に話を戻すと、「群青」で堀下翔さんが私の近著『我が時代』の鑑賞をしてくれていました(第6号)。実に興味深い鑑賞ですが、そこに書かれている筑紫磐井は私にとって初対面でした。
実は、この前の号に大塚凱さんが岸本尚毅の近著『小』の鑑賞をしており(第5号)、至極納得させられましたが、それでも多分ほんものの岸本尚毅と違う岸本尚毅ではないかという気がしなくもありません。
実は近刊の「ウエップ」86号(6月刊行予定。これがアップされる頃は、既に出てしまっているかも知れません)で岸本と筑紫が自らを語る特集をしています。そこでは、『小』『我が時代』の見かけ上の起源(あるいは既に死んでいる作者)である岸本尚毅・筑紫磐井が自らを語っているわけです。作者が生きているか死んでいるかをこれらによって比較・検証するのも一興かもしれません。
いささか駄弁が多くなりましたが先ずこんな質問をさせていただきます。
【福田若之から筑紫磐井へ】
the Letter from Wakayuki Fukuda to Bansei Tsukushi
まず、磐井さんからのご質問に答える前に、自分の文章の取りこぼしを二点だけ、ここで補っておくことをお許しいただきたく思います。そもそも僕は情報提供のために呼ばれたわけですし、出来る限りそれにお答えしておきたいのです。よろしければお付き合いください。読み飛ばしていただいても構いません。1. まず、「作者の死」の日本での広まりについて、補足しておきます。僕のほうで見落としがなければ、1975年10月の『エピステーメー』誌の創刊号に掲載された篠田浩一郎訳が公刊された初めての日本語訳です。ただし、このときには、タイトルが「作者の死」ではなく「作者の不在」と意訳されています。おそらく、当時はまだ、「作者の死」と訳せば具体的な作者の伝記的な死の取り扱いについての議論だと誤解されるような時代だったために、このような訳が選ばれたのでしょう。なお、今日一般に流通している花輪光訳の「作者の死」が収められた評論集『物語の構造分析』の出版は、さらに4年後の1979年の11月のことです。翻訳によって文章の全容が一般に知られるまでにこれだけのタイムラグがあったことは、日本での受容のあり方を語る上でまず最初に触れておくべきことでした。
2. それからもうひとつ。書き手としてのバルトの経歴からも「作者の死」を位置づけることができるということは、やはり触れておくべきだったと思います。彼が1963年に出版した『ラシーヌ論』が巻き起こした論争が「作者の死」につながるものだったことは否めません。バルトはこの『ラシーヌ論』のなかで、おおざっぱに言えば、ラシーヌの書いた戯曲を現代においてどう読むことができるかということを書きました。すると、レーモン・ピカールを筆頭とする人たち――この人たちは、やはりおおざっぱに言えば、ラシーヌをラシーヌの生きた時代に即して読もうとする人たちです――が、バルトに強い批難を浴びせました。冷静に眺めれば、それぞれの立場はそれぞれに意義があって、ほとんど競合するところがありません。ですから、ピカールたちがバルトに横槍を入れる必要はなかったと思うのですが、あまりにも違う考え方を受け入れがたかったのでしょう。バルトにしてみれば不当なバッシングにあってつらいというのが本音だったのだと思います、1966年の『批評と真実』では、新批評を批判する旧批評にいささか困惑しながら、旧批評側の排他的な振る舞いがさまざまなイデオロギーに縛られていることを指摘しました。バルトの主張するところでは、旧批評の問題点は、自分たちが縛られているイデオロギーに無自覚なことです(決して、イデオロギーに縛られていることそれ自体を批難しているのではありません。バルトは、自身の著作を含めてあらゆる批評はイデオロギーから逃れられないと考えています)。旧批評は自分たちがイデオロギーに縛られていることに無自覚だから、自分たちと違う考え方に不寛容になってしまうのだということです。旧批評を縛っているそうしたイデオロギーのなかには、後に「作者の死」で批判されたような考え、作者を作品の起源や造物主の類と見なす考えも含まれています。ラシーヌが書いたものを読むには現実の作者ラシーヌに従わなければならない、と彼らが考えていることは明らかです。バルトは、ラシーヌが書いたものに基づいて作品に今日的な意義を与え、ラシーヌを更新するという立場をとったわけですが、それによって旧批評の営為を否定することはけっしてありませんでした。自分の立場が限定されたイデオロギーに基づくものでしかないことを分かっていたからです。「作者の死」をバルトの経歴の中で位置づけるなら、こうした流れから出てきたものとして捉えることもできます。
……さて、長くなりましたが、ここからはいただいた質問に僕なりにお答えしたいと思います。
(お話は長くなりますので、ここで休憩。続きは次回をご覧ください)
【筑紫往復書簡ゲスト紹介】
- 福田若之 ふくだ・わかゆき;
1991年東京生まれ。「群青」、「ku+」に参加。共著『俳コレ』。マイナビブックス「ことばのかたち」 にて、「塔は崩れ去った」掲載中(更新終了)。
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