開巻。感激。ろくに中身を見ずに買った「天狼」昭和二十六年一月号は第二回天狼賞の発表で、この年の受賞者は津田清子。三十歳。若い。主宰・同人欄に目を移せば、誓子、不死男、多佳子、静塔、かけい、耕衣、三鬼、窓秋、暮石、波津女と、21世紀になっても毎日のように目にする名前の目白押し。誓子選の「遠星集」は巻頭が清子。第三席には八田木枯、一句欄には佐藤鬼房の名前も見える。ああ、俳句史は実在したのだ、と思う。歳時記や評論で出会う俳句は、かつて、その時代にとってのリアルタイムで生まれていたのだ、と。
それと似た思いは毎月感じている。「鷹」の表紙裏に毎月掲載される「鷹回顧展」においてである。過去の「鷹」の主要句を一回につき一号ごとに抜粋するもので、湘子、晴子から「鷹集」投句者までラインナップは幅広い。ときおりよく知った句も混じるのでそれが楽しくて毎月読んでいる。長く続く「鷹」ならではの企画である。
その「鷹」がこの七月に五十周年を迎えたので別冊で『鷹の百人 鷹年譜』というのを出した。七月号本誌より分厚いこの本は、五十年間に在籍した鷹作家から主要な百人を選出して代表十五句と略歴と一句鑑賞を附した〈鷹の百人〉と、動向、記事、主要句を網羅した永島靖子による〈鷹年譜〉によって成り立っている。〈鷹の百人〉の方は現在の鷹作家による執筆で、古参同人のみならず兼城雄、引間智亮、蓜島啓介などの若手も参加している。取り上げられた作家は「鷹俳句賞受賞者を中心に、鷹の俳句の発展に大きく寄与した人物」とのことで、小澤實、辻桃子などすでに鷹にはいない人物も多い。浅学の筆者は、え、この人も鷹出身なの、と驚くことしばしばで、鷹の歴史の長さを思い知ったのであった。
一方でこれまで鷹読者でなければ認知していなかった作家と出会うのも楽しい。略歴はかなり自由に書かれており、教師であるとか、市長であるとか、社長であるとか、酒飲みであるとか、おしゃれであるとか、娘が劇団四季にいるとか、旅の時は大荷物だとか、まるで俳句とはかかわりのない記述もあふれている。もとより読むという営みに作者の素性は関係のないことではあるが、さながら見知った仲の句ごとく読んだ方が、この多彩なる「鷹」の国を見て回るには、むしろ丁度よいのではないか。百人にはひとりひとりことなったキャッチコピーが付されている。【渾身の抒情】(倉橋羊村)【上方文化の豪勢と俳味】(後藤綾子)【白いひと】(仁藤さくら)といったふうにである。かくのごとく与えられるキャラクター性もまた、外部の読者を「鷹」の国へといざなう仕掛けである。その結果として読者は、このなかの幾人かの句集を参照する気になるのである。
「鷹の百人 鷹年譜」を読み終えるとき、俳句史は誓子や湘子のみを記述するものではないと気づく。厖大な作者によって厖大な句がつぎからつぎへと生みだされる。途方もない営為を「俳句」は繰り返してきた。その総体を俳句史として想定することは無意味だと言う人もいるかもしれない。しかし「鷹の百人 鷹年譜」が示した作家の多様性は、検討すべき俳人がこの世に無限にいることを予感させてはいないか。
〈鷹の百人〉から、数句。
座一つは風邪の座風邪の子は休め しょうり大
教室に空席が一つある。教壇からそれを見つめる教師のさっぱりとしたモノローグ。「座」という硬質な語彙、定型にこだわらない切れのよい言い回し、命令形、いずれも気持ちがよい。空席は風邪の座であるというほがらかな発想といい、いかにも健康的な教師像が浮かぶ。
混浴に豊年の月出でにけり 穂坂志朗なんと幸せな句だろう! 苦楽を共にした人間同士が、湯をもまた分かち合っているのである。豊年の満足感が、混浴と月とのそれぞれに表出している。
けふ虻の強き翅音を味方とす 今野福子
今日、何かが変わる確信と決意。そのタイミングで聞こえた虻の翅音に、気持ちを託す。些細なまじないにも似た、だれしもが知る心の高まり。
どつと笑へり遠泳の開会式 菅原鬨也箸が転がってもなんとやら、というのはたしか女性に限った文句だったが、なにもかも面白くて仕方がないのは男子も一緒である。男も女も、このころ、なんだって面白い。これから泳ぐことさえ、おかしい。
100人×15句。五十年を垣間見るに充分な書である。
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