夢をカラーで見ることがある。そういう時には、目が覚めた時に色を覚えていてカラーの夢をみたことをはっきりと自覚できる。通常は白黒で夢を見ているらしいが、色に関わる仕事をしている人はカラーの夢をよく見る。
吉村毬子は第一句集『手毬唄』を六つの章に分け、各章に色の名前を配置した。「藍白」、「深緋」、「濡羽色」、「薄紅」、「天色」、「鳥の子色」。ここに作者がこの句集を極めて意識的に構築したという宣言を認める。各章には用意周到にそれぞれの色に相応しい句が集められている筈であり、それを読者が感得しなくてはならない。ここには、吉村毬子の夢が詰まっているに違いない。
エントリーNO 1
金襴緞子解くやうに河からあがる
「藍白」(あいじろ)の冒頭句。藍染めを行う時に最初の過程で得られる極めて薄い藍色で、わずかに青い白(ほとんど白に近い)であり、別名「白殺し」と呼ばれるとある。してみると、第一章の色として「藍白」を当てたのは至極妥当なことであり、読み手を、この章より徐々に吉村ワールドに染め上げていこう、という著者の企図を感じるのである。この句を冒頭にもってきたからには当然自信作であろうし、この句により句集の方向性を提示していると読むのが自然。金色を冒頭にもってきた意図を酌もう。
金襴緞子を解くように。エロティックな情景。ただし、それに続くは、河からあがる。金襴緞子を解くように、体に纏っていた水を脱ぎ捨てて河から上がる。ナルティシズムの自己陶酔の極みに見えるだろうが、この句にそのような嫌みはないのは「河」から上がっているからである。これがプールや海や水ならこうはいかない。
河、この一語がこの主体が人外、妖(あやかし)であることを暗示している。河の中に棲むモノであろう、この世に姿をさらす際には金襴緞子を解くように水から上がってくる。勿論、このモノは作者の投影である。水を滴らせて。水も滴るようないい女、の暗喩の音も聞こえてくる。
金襴緞子を解くように、と読めるが、この「を」は書かれていない。字数の関係でうまく省略されており、そのため、金襴緞子、で切れる。そのために、まずは河の中かから現れ出でた金襴緞子を纏った艶やかな妖の姿がまず提示される。その後に、ゆるりゆるりと金襴緞子を脱いでゆく姿がそれに続く仕掛けになっている。
そして、読者はこのように思いを一巡させても、何もこの句の真髄に辿り着けないことを知る。読みが堂々巡りするだけだ。描かないことを旨とする俳句は「空」をもって最上とする。空漠とした句に勝るものはない。
エントリーNO 2
逃水や同じ匂ひの蝶の跡
同じく「藍白」より。比喩。逃げ去る蝶と逃水のアナロジーだけなら、凡人でも辿り着けるかもしれない。しかし、飛び去る蝶に逃水の匂いを嗅いだ。ここには詩的なレトリックがある。蝶の匂いの逃水や、でもポエジーはあるが(蝶の匂いを知るものは少ないだろうが)、ここでは逃水の匂い(とはどういうものか)を読者に立ち止まらせて考えさせる。日の匂い、を筆者は想起したしたことを付言する。
エントリーNO 3
溢れる尾 夜光虫でも海彦でもない
「藍白」より。無論、夜光虫でも海彦でもない、と云うことで「夜光虫」と「海彦」を想起させることを狙っている。しかし単純ではない。こういう並列では通例、類似のものを並べるものだが、並列にするには違和感のある「夜光虫」と「海彦」を出す。しかし、逆に、これにより、「溢れる尾」が光るものであり、神話の世界を背負っているものであることを知る。それにより溢れる尾を想起せよ、と読者に投げている。光り輝く大きな海龍の尾を想像したが如何が。
エントリーNO 4
花柘榴あれは坩堝の歌留多とり
続く「深緋」(ふかひ、こきひ)より。緋色は官人の服装の色として紫に次ぐ高貴な色と位置づけられたとある。すでに読者はこの章のネーミングにより古代に引きずり込まれずにはいられない。そしてこの歌。これも比喩によるポエジー。ただ、この比喩は一筋縄ではいかない。花柘榴から歌留多とりへの想起の飛躍は常人にはついていけそうにもない。しかし、作者にそう云われると、読み手としては必死に花柘榴の中に歌留多とりの要素を探さないとならない。それも坩堝。筆者は探し出せなかったがそれはご愛嬌。簡単に底が割れるような句なら要らない。NO. 2といい、作者の力量が分かる作品。
エントリーNO 5
踊り場へ落ちる椿も風土記かな
同じく「深緋」より。椿、風土記、と筆者の秘孔を突いてくる。踊り場、ここで人は一旦立ち止まる。時も立ち止まる。このような語を斡旋してくる吉村毬子恐るべし。「踊り場へ落ちる椿も」から、「風土記かな」への転換が見事である。風土記に記載されることによってこの椿は神話となった。
エントリーNO 6
口中の鱗を吐す花曇り
「薄紅」(うすくれない)、主格は勿論鯉などではない。口の中に溜まりゆく鱗。桜の候。このような微妙な感覚は女性ならではと賞賛すべきか、自分にはない感性と嘆息すべきか、じぶんの皮膚、自分の鱗が口の中に溜まる。花曇りの中、アンニュイの中、溜息に混じり溜まった鱗を吐く。「吐す」は「もどす」と読んだ。
エントリーNO 7
釣人までの紫陽花を漕ぎゆかむ
「天色」(そらいろ、あまいろ)より。岩の上に座する釣人にむかって紫陽花の間を進んで行ったとも読めるが、海上で舟に乗る釣人を想像させる。そこまで続く海上の紫陽花。そこをめがけて海の上を歩いていく。釣人までの距離まで目に浮かぶ。それは紫陽花(色)の力ゆえ。
著者が中村苑子に薫陶を受けていたことは本人からすでに聞き知っており、著者が『手毬唄』の「あとがき」でも触れている。そこでは三橋鷹女にも言及している。「あとがき」では著者の作句心情が控えめに吐露されている。
いつよりか遠見の父が立つ水際 中村苑子
俗名と戒名睦む小春かな
春の日やあの世この世と馬車を駆り
桃のなか別の昔が夕焼けて
父母未生以前青葱の夢のいろ
生前も死後も泉へ水飲みに
幻視俳句の第一世代と言えるであろうか、中村苑子、柿本多映、津沢マサ子、熊谷愛子、他、彼女ら、の描く世界は異界が異界とすぐに知れる。異界は異界として存在する。それに対し、吉村の作品は、現とも夢とも分からぬ混淆とした詩情豊かな世界を現出する。それは吉村毬子の描く世界が異界と「しなやか」、「やわらか」、「ゆたか」に融合しているからである。「しなやか」、「やわらか」、「ゆたか」、これを毬子ワールドのキーワードにしたい。そこから醸し出される風雅、寂しみ、悲しみがじわりと読み手の心に沁み入って心地よい。
ここで採り上げた句は筆者の琴線に触れたものであり、たかだか7句をもって吉村毬子の力量を云々することはできない。しかし、この七星はわたしの心の極北に燦然と輝き、吉村の大いなる影はその天球に投影された。その光はとても強くて柔らかくて心地よい。これらの詩が紡ぐ風情は、夏の木陰で思いがけずに賜る心地よき涼風のごとき。本句集は吉村毬子の存在を俳壇に示すのみならず、俳句が繊細さと強靭さを兼ね備える詩型であることを改めて教えてくれた。
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