2014年1月17日金曜日

「正木ゆう子と私――戦後俳句の私的風景」 ② /筑紫磐井

②出会い
正木ゆう子との出会いは、句会での出会いであった。当時付けていた日記によると、昭和48年9月26日(水)、上野の東京文化会館の沖の句会に参加したときの記録が残っている。

会場にはじめに来ていたのは、新入の人ばかりだった。そのなかの若い女性がつかつかとやってきて、「あなた初めて?いっしょに坐りましょう。」と言われ、はじっこに坐ることとなる。名前は正木ゆう子で、御茶の水女子大家政学部3年、正木浩一氏の妹、正木みえ子氏の娘さんと聞いた。一方私の名前を見て、「お宅、難しい名前ねえ、なんて読むの」などとぺちゃくちゃ。

当日出した私の「能面のまなこうつろの稲光」という句をこの句会で取ってくれたのは正木ゆう子一人。記憶にないのだが、私が取った句も正木ゆう子の句であったと彼女から後で聞いた(どんな句であったかは残念ながら失念)から、何のことはないニューカマー同士で慰め合ったようなものだ。

とはいえ、私が「沖」の昭和47年11月号から作品が掲載されたのに対し、正木ゆう子は昭和48年12月号に初掲載されているから1年ほどの先輩になるはずだったが初対面からしてそんな感じはなかった。彼女は、兄の正木浩一氏に勧められて沖に入会したが、その記念すべき第1号がこんな作品であった【注1】。

コスモスが群がり咲いて恋したし 正木ゆう子 
夜に入り紅かたまりぬ貴船菊 
秋日暮青ければ灯をともさずに

「恋したし」なんて若い女性特有の句で今見るとなんだか気恥ずかしくなってしまうが、それでもその後の正木ゆう子とどこか通うような気がしなくもない。

翌49年1月号ではもう上位に掲載されている。俳句を始めて数ヶ月なのにである。

秋澄むや鏡は空の写る位置      正木ゆう子 
椎の実を拾ひ地面の冷えを知る 
見つめられ柿輪郭を濃くしたり 
ごろごろと芋掘られなぜか笑ひたし


であり、特に「見つめられ」の句を掲げて能村登四郎は「20代作家特集が「俳句」誌で行われた時、私はお師匠さんの型真似が多いと批評したが、この作者は全くあたらしい発想で俳句に立ち向かっている。それだから実に新鮮である。私はこの作者が俳句を勉強して行くにつれてこの新鮮さをこわしてしますのを今はむしろ怖ろしく思う。」と評している。この時兄の浩一氏が巻頭句を得ているから、そんな縁で上位に登場したと言えなくもない――30年経ったからこれくらいのことは言っても怒られまい。ただそれにしても、能村登四郎の評そのものはまさしく正鵠を射ていたようだ。現在の61歳の正木ゆう子を評するのに、こんな的確な評を書ける評論家はおるまいと思えるのである。

こんなところから始まって、「正木ゆう子と私――戦後俳句の私的風景」を書いていってみたいと思う。

【注】正木ゆう子は、俳句を始めた頃の記憶を次のように綴っている(『十七音の履歴書』)。先に「沖」で俳句を始めていた兄の正木浩一から山本健吉の『現代俳句』が送られてきたときのことだ。

「俳句の本が他の本と違うのは、五七五という独特のリズムがあることだ。これは伝染病のように体に入り込む。私の体にもそのリズムが入り込んだらしい。ぶ厚い文庫本の『現代俳句』を読み終えたある日、花屋で小菊を買ってアパートまでの道を歩いていると、歩調に併せてふっと言葉が五七五になって出てきた。

「もしかしてこれって俳句?」と私は兄に手紙を書いた。」

「・・・兄は「沖」でたちまち頭角を現した。そうするともう俳句が面白くてたまらない。私に『現代俳句』を送ってきたのは、自分が始めて一年たった頃であった。

「これって俳句?」と私が書き送った最初の句は、待ってましたとばかりに、「沖」に投句されることになる。」


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