2014年1月24日金曜日

【俳句時評】エッセイ “Haiku in English”からヒッピー文化、そして高屋窓秋へ / 北川美美



湊圭史さんの俳句時評にあった「Haiku in English – The Fist Hundred Years」の書籍紹介が何やらとても楽しそうでついつい購入した。最近ようやく読む気になり頁を開くと英文ながら結構私にも読めるのでひどくはまってしまった。

Haikuといっても、堅苦しい定義はなく三行のものもあれば一行詩的なものも広く収録されてる。下記の詩(Haiku)が眼にとまった。

an empty elevator
opens
closes
 
JACK CAIN
ビジュアル的にも惹かれてしまい、「俳句的」な思考が確かにあると思った。言葉による映像である。これは説明するに及ばず、言葉が目に入り、脳を通して頭の中で映像となるという連鎖反応が起こり読者がそれぞれの映像を想像する。私は上掲詩により、映画監督・デイビットリンチ的な不可思議な世界を思い、説明すると一気に野暮になるのだが、空っぽのエレベーターの扉が開いたり閉ったり永遠とつづく「映像」を想像し、妙な感動を覚える。これは短詩型でなければ起らないことだろう。

英語の俳句がなんたるかの定義もあるのかもしれないが、これを見ていたら、初期のオノ・ヨーコの作品を思いだし「grapefruits」を引っ張り出し、またもはまってしまった。

RIDING PIECE 
Ride a coffin car all over the city. 
1962 winter Yoko Ono”grapefruits”
命令形であるはずだが、街中を霊柩車に乗って行くという空想の何物でもない気がする。しかし、オノ・ヨーコは実際にこの言葉からメルセデスベンツの霊柩車を制作して実際に街中を走るのである。こういうクレイジーな感じがするところが60年代の世界の風潮にも合っていたのだと思う。

Ono Yoko ”Coffin Car "の画像


オノ・ヨーコは私の中では戦後の日本における高等遊民ともいうべき芸術活動家で、草間弥生、出光真子とともに日本を代表する女性芸術家としての鮮明に位置付られている。その中でもオノ・ヨーコがヒッピー文化のアイコン的存在だった印象がある。それは、言葉を作品の一部とした傾向によることからきているのかと思う。オノの作品で思い出すのは、額縁に虫眼鏡がぶら下がっていて、その虫眼鏡で額縁の中の小さな文字を覗くと[Peace]なんて書いてある。梯子の作品では、天上に虫眼鏡がぶら下がっていて、虫眼鏡で天上にあるゴミとも虫とも思える小さな文字を覗く。すると[YES]なんて書いてあったりする。(私が持っているオノ・ヨーコデザインのコーヒーカップは内底に[YES]と印字されている。)

虫眼鏡でしか見えないものが[Peace]という当時の政権に対するアイロニーの作意もあるかもしれない。

[Peace]の流行が先かオノ・ヨーコの作品の中の[Peace]が先かは不明だが、[Peace]は当時のベトナム戦争に反対するヒッピー文化の合言葉として定着したのである。写真を撮るとき、今もジャンケンのチョキ、いわゆるピースサインをして「チーズ」と言うのが定着しているが、元々あれは、ベトナム戦争反対のサインという説があり、サインに合わせるのであれば「チーズ」ではなく「ピース」だった記憶があるのだが、いつのまにか、発音で笑顔になるという理由からか「チーズ」となった経緯が私の中にはある。

ヒッピーというのは「愛と平和とセックス」がスローガンなのだが、これがまた食文化、音楽、芸術、ファッションにまで浸透したのだからすごいムーブメントだったわけだ。現在のロハスという言葉も、マクロビオティックという食事療法もヒッピー文化の進化だと分析できる。

ヒッピー文化の影響を受けて来日し、現在、京都の古民家に住むハーバリストのベニシアさんが出演する番組「猫のしっぽ カエルの手」を見ていると彼女の人気の理由がわかる。番組最後の詩の朗読である。基礎的英語がわかる人ならば理解できる英語をブリティッシュイングリッシュで朗読する。

「雨が降る(あるいは「降っている」)」ということを彼女のお国の言葉で「It rains.(あるいはIt is raining.)」と彼女自身で朗読することにより詩のエネルギーに変化する。彼女の朗読を聴いていると詩っていうのは比較的わかりやすい言葉で端的に表現することにより、こんなにも言葉というのが人に受け入れられるものなのだと実感できるのである。

ベニシアさんの人気も凄いが、ヒッピーの末裔のような存在で世界的に有名なのは、故スティーブンジョブスによる「Stay hungry, stay foolish」であるがこれは詩というよりもスローガンに近いものなのでまた別の機会に書いてみたい。(タワーレコードの「No Life. No Music」というのも短詩といえばそうなのかも。)

英語俳句からはじまってヒッピー文化、そして本来の俳句の話に戻ると、ヒッピーとは完全に無縁な高屋窓秋の句がひどく頭の中を駆け巡る。今見てもこの句は、とても不可思議でセンセーショナルで、60年代的感覚とだぶる句ではないかと思う。


頭の中で白い夏野となってゐる        高屋窓秋


短詩型というのは時代や国境を越えて不思議な力を持っているものだとつくづく思う。


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