社会性俳句を詠んでいる作者の内面は鬱屈し、複雑な様相を帯びているかもしれないが、表現そのものは分かりやすくなければならない。複雑な思想に慣れていない作者が新しい表現を模索しているがゆえに難解のように見えるが、難解と分かりやすさのどちらを選ぶとすれば分かりやすさに決まっている。
私は俳句史が始まって以来最も分かりやすい俳句は社会性俳句であったと思っている。難解には二つの次元があると思う。①表現が難解である事例、これが今論議している難解であると知れば、②何でこんな俳句を詠んだのか分からないと言う難解がある、より根源的な難解性である。花鳥諷詠俳句とは、実はこの第2番目の難解性を持っているのである。貴重な時間を使って、17文字の表現を使って、なぜこのようなくだらない俳句を残さねばならないか、俳句を始めた人が一度は抱く疑問である。「古池や蛙とび込む水の音」「流れゆく大根の葉のはやさかな」「一月の川一月の谷の中」「冬の波冬の波止場に来て返す」等々。そうした疑問の是非はさておいて、社会性俳句は①の難解さも、②の難解さも残さない俳句なのであった。
だから社会性俳句における文体問題とは、分かりやすい文体問題に集約する。気取った、持って回った表現を排除し、より直截に作者の思想や感情をあらわす。そのためには古い伝統を排除することもいとわないのである。
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ここから社会性俳句をスタートさせると、俳句の本質が見えて来る。分かりやすい自由な文体を目指した社会性俳句が、なぜ多く「季語」を使っているのか。
おそらくだれもが戦後の社会性俳句の代表であり頂点と信じてやまない作品がこれである。
白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ 古沢太穂
「白蓮」「白シャツ」という季語がなければこの句の魅力は生まれない。なぜ社会性俳句の理論に反するような季語が不可欠なのであろうか。それは、俳句の伝統からかけ離れた作者の思想や感情が激昂して、季語を要求したからである。
我々が俳句を作る時に季語を入れるのは約束であるからである。約束であるから、そこの季語は死にかかった季語である。死臭の漂う季語だ。しかし、この句では作者は季語など不要と思っていたにもかかわらず、自分の思想や感情を表現する際に季語を発見したのである、創造したと言ってよいかもしれない。どんな伝統派の俳句作家より、季語が恩寵としており立ったのがこの句であり、この作家であったのである。
こうした季語であればだれも文句は言うまい。真の季語は、社会性俳句作家によって発見されるのである。
もちろん、そうした季語を詠んだ社会性俳句ばかりではないことは当然である。しかし、明治以来の近代・現代俳句において、俳人が体験した初めての季語体験がここにあったと言うことは忘れてはなるまい。高浜虚子はうすうすそのことに気づいており、この作者(古沢太穂)には常に敬意を持って臨んでいたようである。山口誓子や高柳重信より太穂を余程気に入っていたのである。
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