しかし、逆にそれが思想的深みを損なっている気もする。そうした自覚からか一貫して書き上げているテーマがこの本の中には幾つかある。例をあげれば、「桑原武夫「第二芸術論」に応う 極楽の十三階段」は桑原の「第二芸術」を絞首刑の十三のステップに分解し批判している。「異界のベルカント――攝津幸彦」は多彩なアスペクトを持つこの異色の俳人をいくつもの視点から論じている。しかし残念なことに衝撃的な結論で幕を閉じてはいないから論じきった感じがしない。おそらく、これから幾章かを書き加えることによって恩田侑布子の芸術論、攝津論が完成するにちがいない。
そんな中で面白いのは長谷川櫂論だ。「質感の幻術師 長谷川櫂小論」はどうして小論などではない、本格的な批判となっている。ただ上の第二芸術論、攝津論と違って、画期的結論で閉じる必要がなく、むしろ陽炎のように長谷川櫂の行く末が消えて行くことにより、縹渺とした櫂論を結んでいるのである。
例えば、長谷川櫂が俳句を「宇宙の火掻き棒」というのなら、恩田は、長谷川櫂は「俳句形式という武家屋敷に仕官してしまった御家人」だろうと混ぜ返す。あるいは櫂の俳句技法として「~して」や「て」が顕著なことから生まれる俳句規範として、懊悩のない世界、個性を恥ずかしいと見る世界につながるという。こうした構造分析は私もしばしば使う手法だが、使い方によっては非常に効果的だ。恩田は長谷川の特質を「明け渡す自己」ととらえる。「古典に自己を明けわたしたところに、様式としての技術の向上はあるが、自己の励起はない。」は巧みな批評というべきだろう。そして「彼の非凡な言語感覚は、分節化されたことばの微妙な差異を嗅ぎ分けるのに熱心であり、ことばの湧き上がってくる見えない暗闇、すなわちカオスにはけっしてむかわない。」と結論づける。最後は、長谷川に質感の幻術師から存在の魔術師に変わって欲しいと結ぶのだが、実はこれは長谷川に無い物ねだりをしている痛烈な批判なのである。
恩田の長谷川櫂論を読んで私ははたと膝を打ったところがある。長谷川はしばしば近代や欧米を否定して東洋的な世界に随順することを勧めるが、必ずしもそれは代表的東洋思想ではないようなのだ。いってみればすべてを肯定する「華厳の世界」にすぎない。しかし、性悪の共存によって世界が成り立つと見るのが東洋の代表思想である「法華の世界」だ。華厳の世界は閉じて何も新しいものを産み出さなかったが、法華の世界は密教・律・禅・浄土・一乗の多様な中世仏教思想を生み出した。虚子の花鳥諷詠・諸法実相は性悪あっての極楽主義なのだ。こんな妄想を発展させてくれるのもこの本の恩恵であろう。
(俳句四季9月号「俳壇観測」より転載)
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