2013年9月27日金曜日

第39 号 (2013.09.27 .) あとがき

北川美美

秋興帖第四となりました。作品では丑丸敬史さんに御寄稿いただきました。時評では、筑紫相談役の前号の補強版と外山一機さんの新着があります。

作品画像がグレーになる現象が先週から続いています。原因不明です。放置して元に戻るものなのかわかりませんが経過をみたいと思います。ご了承いただきたくお願い申し上げます。

トップページの画像サイズをかなり小さくしました。閲覧時の負担が軽減されると思います。それによって大御所の「週刊俳句」とデザインがほぼ同じになりました。(もともと参考にはしていたのですが。)まだ見難いところがあるかもしれませんが、また手直ししていきたいと思います。


筑紫磐井

○「週刊俳句」の「ku+」の予告記事を踏まえて、前号の記事に追加を付け加えてみた。ウエッブと雑誌の関係は今もってよく考えてみないといけないと思うからである。

○新しい媒体にちなんで話題を一つ。今、あるアンケートを採るためにテレビ番組の歴史を調べている。「戦後俳句を読む」で1953年(昭和28年)2月にNHKテレビ、8月に日本テレビの放送が開始されたと書いたが、もちろん欧米でのテレビ放送はそれより遙か前である。しかしテレビ番組が社会に大きな影響を及ぼすようになったのはそれ程以前のことではないようである。

一例としてなじみの深い洋楽に関して言うと、イタリアのちゃちなテレビ番組で放送されていたサンレモ音楽祭が一躍有名になったのは、1958年のドメニコ・モドゥーニョの「ボラーレ」(Nel blu dipinto blu)によってである。それはこの曲がアメリカのテレビ番組(エド・サリバン・ショーであったと思う)で紹介され、第1回グラミー賞を受賞し、世界の「ボラーレ」になったからである。サンレモ音楽祭は以後続々と名曲を生みだしたし、アメリカもこの前後を境に、「ダイアナ」(ポール・アンカ1957年)、「オー・キャロル」(ニール・セダカ1959年)、「悲しき片想い」(ヘレン・シャピロ1961年)、「アイル・フォロウ・ヒム」(リトル・ペギー・マーチ1963年)などのいかにも新しい世代の曲が生まれた。その意味で、アメリカの音楽も世界の音楽も、「ボラーレ」以前と「ボラーレ」以後に分けられそうな気がする。グローバル化と新世代の登場がほぼ同時に行われたのである。

さて、1958年とは日本の俳句界で言えば、社会性俳句がほぼ一服し、新しい前衛俳句が誕生する前夜であった。そして、1960年の安保闘争、1964年には日本で最初のオリンピックが開かれている。

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