2025年1月24日金曜日

【連載】現代評論研究:第1回・私の戦後感銘句3句(1)  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、仲寒蟬、北川美美

はじめに

 2011年から数年間、BLOG「詩客」(「詩歌梁山泊~三詩型交流企画」)の俳句部門で「戦後俳句を読む」の企画を実施してきた(その後、BLOG「俳句空間」、BLOG「俳句新空間」に継続)。既に10年以上が経ち改めてそれらを読み直したいという希望も出されたことから、俳句作品(当時は川柳作品も多くの参加者があった)を中心に復活しようとしたものである。方針を固めて連絡を取り、了解の取れた方を中心に掲載しようとするものである。出来ればその後新しく参加される方も募集したいと思っている。

 近年『●●●の百句』の企画が好評に進んでいるが、こうした企画に先駆けたものとしての連載であったと考えている。読者のご支援を期待したい。


[執筆者]

藤田踏青【近木圭之介】、土肥あき子【稲垣きくの】、北村虻曳【戦後俳句史総論】(総合座談会に掲載)、飯田冬眞【齋藤玄】、堺谷真人【堀葦男】、山田真砂年【富澤赤黄男】(今回欠稿)、堀本吟【戦後俳句史総論】(総合座談会に掲載)、岡村知昭【青玄系の作家】、しなだしん【上田五千石】、筑紫磐井【楠本憲吉】、仲寒蟬【赤尾兜子】、北川美美【三橋敏雄】


●―1:近木圭之介の句/藤田踏青


古里 石も眠い


 「ケイノスケ句抄」(昭和61年発行)の中の昭和55年の作品である。明治45年に生まれた圭之介(旧号:黎々火)は小学校1年生までの7年間、金沢の地で育った。そして1年生が終了した後、山口県長府市の伯父の許へ養子となり移り住んでいるので、この古里は金沢を指しているのではないか。叙情を抑え句材とする物「石」を冷静に描写する事によって「古里」への思いを円環的に形象化している。そして埋もれ去った時間の中で古里は眠りに居り、石もまた掴みどころ無く眠いのである。

 この句は4・3・3のリズムの十音であり、自由律俳句での所謂短律句である。荻原井泉水が主張した自由律俳句では、大正末から昭和初期にかけて短律の句が数多く作られ、その主宰する俳誌「層雲」では昭和4年に層雲第7句集が「短律時代」と称して刊行されているほどである。代表例としては次のような句がある。


 咳をしても一人(9音)  尾崎放哉  大正14年

 草も月夜   (6音)  青木此君楼 大正15年

 陽へ病む   (4音)  大橋裸木  昭和6年


 井泉水の主張では「俳句は一つの段落を持っている一行の詩である」(「新俳句入門」より)とあり、上掲の句なども構成的に二句一章の構造をもち、意味上の句切れと音調上の句切れを共に備えている。圭之介は昭和7年に「層雲」に入門しているので、当然そのような新しい短律の世界を見つめてはいるが、放哉や山頭火とは異なる詩性を尊重する短詩的傾向の作品開拓へと進んでいったのである。

 自由律俳句の短律については高柳重信が次の様に言及している。「大正時代にはロマンチックな人道主義と、ほとんど純粋無垢に近い社会主義と、繊細で厭世的な魂が縋りつくように求めるストイックな信仰と、それぞれに当時の社会状況を反映した俳人たちが、真剣に一途に精神の火花を散らした一時期であった。それ等の俳人たちにとって、この時代は、少なくとも主観的には、どうしても書かずにおれぬと信ずる何かがあまりにも多かったため、十七字の桎梏から解放された自由な短詩型は、まさに手頃な表現の具であったろう。・・・・中略・・・・自虐的なまでにストイックな信仰心を高めてしまった人たちは、おのずから寡黙をあいするようになり、十七字の俳句定型よりも更に言葉を惜しむ短律へと傾斜してゆくのであった」(「俳句形式における前衛と正統」より)。これは多分に放哉や山頭火を念頭に置いた論であろうが、短律という形式は戦後においても掲句のように脈々と生きづいており、戦後は信仰心というよりはより一層詩的な方向へと展開されていった。

 また、圭之介は昭和16年と昭和53年の2回「層雲賞」を受賞しているが、戦前戦後を通じて二度の受賞者は「層雲」では氏ただ一人である。その2回目の受賞の前年(昭和52年)の作品に次の様なのがある。


古里では黄昏が咽喉から溢れて来た


 これは前掲の作品とは異なり、二十一音の長律の作品である。自由律俳句の本義である「一句一律」の主張は当然、このように一人の作者の中で短律と長律の並存という可能性をも秘めているのである。

 尚、氏の没後(平成22年)に刊行された「日没とパンがあれば」では掲句はそれぞれ「古里 眠い石も」「能登で黄昏が喉まであふれてきた」となっているが、その詩画集的な趣きを考えると、俳句臭を取り去り、詩的に推敲した為かも知れない。


●―2:稲垣きくのの句/土肥あき子


歯でむすぶ指のはうたい鳥雲に


 きくのの句集は生前3句集、没後1句集、計4句集ある。このたび3回続く感銘句の鑑賞は、それぞれの句集から一句ずつ取り上げていきたい。

 掲句は1963年に刊行された第一句集『榧の実』に所収されている。「春燈」に投句を始めた1946年から1962年まで、40〜50代の作品が収められている。「春燈叢書第18輯」とある本句集は、扉の木版画に当時「春燈」の表紙も手がけていた川上澄生、題字は宮田重雄という瀟酒な装丁であり、句集というより、上質の和菓子の箱のようにも見える。とはいえ、そこに並ぶ俳句は甘い菓子を思わせるものは少ない。

 掲句から見えてくるのは一人の女である。他人の手を借りずに、女が一人でできるものは数あれど、指の包帯ほど厄介なものはない。片手で押さえながら、歯も動員し、最後に作る結び目にくっと力を入れるときの視線は、確かに宙を見上げるかたちになる。それもどちらかというとぶざまな姿であると自認しつつ。

 きくのは短い結婚生活を経て、20代を映画女優として自活の道を得た。役柄を見ると、女客などが多く、大きな役でも主役の姉あたりであることから、スターというほどではないが、それでも10年間に45本という出演本数は立派な女優として活躍していたことを意味するものである。また、これは一般の明治生まれの女性の典型からは外れた人生でもある。結婚、出産、子育てという周囲の常識から見ると、遥か遠くの銀幕の女性であり、きくの自身「一般とは違う女」であることをじゅうぶんに意識していただろう。そして、そろそろ30歳になるという頃、女優を辞め、俳句を始める。仕事を辞める直接のきっかけが何であれ、己の美や老いをもっともはっきり自覚する職業であることを思うと、30歳は潮時と考えたのかもしれない。

 きくのの作品には生活感がないと言われてきたというが、女優であった経験が自身の運命をごく客観的に見る術を身につけたのだと思われる。ストーリーがあり、背景があり、役者がいる。これらを実生活のなかでも、自然と感知していたのではないかと思われる。

 掲句に漂う空気は孤独であるが、対極に渡り鳥を自由の象徴としてはばたかせることによって、大きな空間が生まれた。雲に紛れる彼らの目指す先の安住の大地へ、思いを馳せる。包帯の白が実に映像的である。

 同句集に収められる〈夏帯やをんなの盛りいつか過ぎ〉〈似合はなくなりし薄いろ鳥雲に〉〈つひに子を生まざりし月仰ぐかな〉などからも、現実を静かに見つめ、嘆き悲しむ見苦しい姿は決して出さず、かといって目を閉ざすわけでもない妙齢の女が凛として佇っている。



●―4:齋藤玄の句/飯田冬眞


おのおのの紅つらならず曼珠沙華 昭和50年作 句集『雁道』所収


 曼珠沙華を見るとき、どのように見ているだろう。まずは畦一面を真紅に染めて咲く曼珠沙華の一群が視界に飛び込んでくる。その次に焦点を絞ってゆくと、ひとつひとつの曼珠沙華の姿と色に行き着く。曼珠沙華の花の色を言葉で表すならば「紅」としか言いようがない。しかし、一本一本の真紅の曼珠沙華の「紅」の色はどんなに群がり、蘂と蘂が錯綜するほどに咲き乱れても、決して、隣で咲く曼珠沙華と同じ「紅」の色ではないのだ。曼珠沙華の「紅」の色は隣の紅を乱さず犯さずに咲き盛っている。全体では真紅一色に見える曼珠沙華も一花一花の「紅」の色は微妙な異なりを身にまとっている

 言葉と実態のもつ微妙な差異を凝視することで曼珠沙華の実相を見つけ出し〈おのおのの紅つらならず〉と表現し得たところにこの句の独自性があるように思う。言われてみれば確かに曼珠沙華の姿は、そうとしか言いようがない。まさに写実の鋭い目によって、曼珠沙華の本来の姿を描いて見せた一句といえる

 齋藤玄は「凝視と独白の作家」であると前回紹介したのだが、この句は、彼の「凝視」の側面をよく表している句だと思う。曼珠沙華の人口に膾炙した句と比較するとそれがよくわかる。試みにいくつか挙げてみる。


つきぬけて天上の紺曼珠沙華   山口誓子

曼珠沙華落暉も蘂をひろげけり  中村草田男

西国の畦曼珠沙華曼珠沙華    森澄雄

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子  金子兜太


 どれも秀抜な句であることはまちがいないのだが、曼珠沙華そのものが鮮烈であるゆえに〈天上の紺〉〈落暉も蘂をひろげ〉〈西国の畦〉〈腹出し秩父の子〉といった景物あるいは背景を引き合いに出すことでしか作品世界の均衡を保てなくなっている。つまり、私たちが名句だと思っているこれらの句は、読者が抱く曼珠沙華に対するあるイメージを引用することではじめて作品として成り立っている作り方なのだ。俳句とはそういうものであるのかもしれず、大方はそうした詠み方、作り方でよいのだが、齋藤玄は対象を見て視て観て見尽くして自滅するか、そこから対象本来の姿をつかみとることに成功するかのきわどい作り方をしている作家なのである。掲句はもちろん成功例なのだが、他の作品について言うと「凝視」することで対象と一体化した挙句に作者が透けて見えすぎる嫌いがある。たとえば同じ『雁道』の〈色として白梅の白なかりけり〉などは、〈白梅の白〉を凝視した結果〈色として〉〈なかりけり〉という理屈を詠むという自滅の道をたどってしまっている。いわゆる「理に落ちる」というやつだ。掲句は、他の背景、景物をいっさい用いずに曼珠沙華だけを見てその「紅」をとおして〈つらならず〉という曼珠沙華そのものの姿に肉薄した結果、命と命のありかたの実相、関係性の真理といったものの一面を言いとめているようにも読めるのだが、いかがだろうか?


●―5:堀葦男の句/堺谷真人


ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒


 第一句集『火づくり』(1962年)所収。最終章「火の章」、「潜在空間」と題する25句の劈頭に置かれた作品である。広く人口に膾炙した堀葦男の代表作であり、究極の抽象表現は昭和三十年代前衛俳句のひとつの到達点を示す。安西篤は『現代の俳人101』(2004年)の中でこの句について「原色のタッチの力感でひた押しする抽象画のバイタリティを感ずる。アクションペインティングのような力強さだ。当時の時代相の低暗部にあるマグマを感覚的に表現し得た句でもあった」と書いている。的確な鑑賞であろう

 葦男は、終生、俳句表現の形象性を重んじた。句座では「心のすがたを、物のかたちで書く」という言い回しを好んで用い、時に言語遊戯や観念性に流れる連衆をやんわりと誘掖した。その葦男がこの句では黒以外の色彩と形状とを悉く消去しているのだ。互いに相摩し、相撃ちながら押し寄せて来る夥しい黒の氾濫。怒濤のような運動エネルギーだけを、作者の側もいわば「力づくで」書き切ってみせたのである

 ところで、筆者は生前の葦男から、この句の誕生の契機となった体験について直接聞いたことがある。「夕方、御堂筋を歩いていた。ふと顔を上げると、淀屋橋方面から夕闇を背景にして猛然と走って来る自動車の群が目に入った。煌々たるヘッドライトの光以外は一様に黒い塊。それがあとからあとから際限もなく押し寄せて来るさまは圧倒的だった」と

 大阪市を南北に貫く6車線の御堂筋は、1970年の1月から南進のみの一方通行となった。同年4月に開幕した大阪万博による交通量の増大が予想されたため、渋滞緩和策として、市内の南北方向の幹線道路が一方通行化されたのだ。葦男が目にしたのは南北双方向に自動車が流れていた御堂筋である。職場は大阪市東区(現・中央区)備後町の綿業会館内にあった。綿業会館から西に300mほど行くと御堂筋にぶつかり、淀屋橋はそこから北に約800mという位置関係だ。葦男は御堂筋に沿う東側の歩道を北向きに歩いていたと思われる。帰宅中だったのであろう。いや、仕事関係の酒席があって北新地方面までゆく途中だったのかもしれない。いずれにせよ、前衛俳句の極北に屹立するこの記念碑的な一句は、近現代大阪の大動脈ともいうべき御堂筋の夕闇の中で胚胎したのである

 以下、余談。葦男の職場から御堂筋に出て、淀屋橋と正反対、南へ500mほど行くと、真宗大谷派難波別院(南御堂)がある。その近く、御堂筋の東側側道と中央4車線を隔てるグリーンゾーンに小さな石の柱が立つ。刻まれているのは「此附近芭蕉翁終焉之地ト伝フ」の文字。芭蕉が客死した花屋仁左右衛門の旧宅跡だ。昭和初頭の御堂筋拡幅工事により、旧宅跡は路面にせり出す格好になってしまった。元禄七年の秋、一人の老俳諧師があまたの門人たちに囲まれて今生最後の幾日かを過ごした永訣の地を、3万台以上の自動車が今日もまた駆け抜けてゆく


●―6:富澤赤黄男の句/山田真砂年(今回は休載)


●―8:日野草城の句/岡村知昭


山茶花やいくさに敗れたる国の


 『青玄』という雑誌が日野草城の存在なくしては決して生まれなかったことを思うとき、これから「『青玄』の作家たち」の作品の数々を考えていくときに、まず取り上げるべき作家は草城こそがもっともふさわしいはずである。そしてこれから取り上げる1句こそ、草城の俳句への復帰を飾る第一歩であると同時に、草城を慕う若者たちにとっては『青玄』創刊への大いなる助走のはじまりとして、それぞれの立場がその後さまざま変わることはあっても決して忘れることのできない大切な存在、まさしく「感銘句」としてあり続けた。私にとっての「『青玄の作家たち』へのアプローチもまた、日野草城の「山茶花」の1句から始めることにしたい

 草城がこの一句を詠んだのは昭和20年11月11日、大阪は豊中の小寺正三の自宅で開かれた第1回「まるめろ俳句会」でのこと。草城がこの1句を詠むまでの様子は、この日の句会に参加していたひとりである楠本憲吉は翌年創刊した「まるめろ」の創刊号で次のように書いている


 本道をそれて道が下り坂にかかった時、左手の籔の茂みの中に山茶花の灌木がぽっかり浮き出たように咲いているのに目を引かれ、振り返りざまに眺めていると

「オヤ、山茶花が咲いていますね

 と穏やかに言われた。それはいかにも穏やかな先生の声だった

        (引用は『日野草城全句集』栞所収の「先師草城のことども」より)


 楠本憲吉はもちろんのこと、伊丹三樹彦、桂信子といった他の参加者たちが一挙手一頭足を食い入るように見つめ続けていた中で草城が発した「穏やか」な声、「穏やかに」語られた言葉。「穏やか」な一瞬から詠まれた草城の1句が参加者に強い印象を残したであろうことは想像に難くないし、いま彼ら彼女たちが立っているこの場のありようを「いくさにやぶれたる国」と広い視線で捉えるときのあまりの穏やかさも、参加者たちをまた驚かせるに十分だったはずである、まぎれもなくこの国は「いくさに破れ」たのだとの思いを「穏やか」な詠みぶりを通じて草城は突きつけてきたのだから。そんな参加者たちの驚きをよそに、草城はこの1句に対しての名乗りを「又しても如何にも穏やかに言われた」と憲吉は書き残している。名乗りは幾度も繰り返され、この日の句会の最高点となった

 8月15日周辺の句で「おもひきや戦をとざすみみことのり」「戦果つ残る暑さのきびしきに」と詠んだ草城にとって、「敗れたる国」と敗戦をはっきりとした言葉で表すことへの逡巡は多少はあったかもしれない。だが自らの目の前に立つ若者たちのまなざしの熱さを前にして、自らが再び俳句に拠って立つ意思がより確かなものとなったことを深く実感したところから、草城の「いくさに敗れたる国」での再出発が始まった。それはこの日出席した憲吉、三樹彦、信子にとってもまた同じだったのだろう。草城の「穏やか」さの中に秘められた熱さを受け止めるところから始まったそれぞれの戦後。だが草城と若者たちの想いがひとつの雑誌として形になるまでにはあと3年の月日を要したのだった


●―9:上田五千石の句/しなだしん【「星」の句からみる五千石の真実(1)】


 前のプロローグ(自己紹介)にて


ゆびさして寒星一つづつ生かす   五千石(昭31年作)


を第一句集『田園』から挙げ、私の愛誦句であることは書いた。

 この句の特筆すべきは、とても能動的であること。「ゆびさして」「生かす」のだ。見上げた夜空に星を一つ見つける。一つ見つけると目がどんどん闇に慣れてゆき、また一つ、また一つと星を見出すことができる。五千石はその行為を「生かす」と言いきった。それも、星の一つ一つを確認するように「ゆびさして」である。

        ◆

 このとき、五千石はきめらく星を「ゆびさして」「生か」したいほどの心持ちにあったのだろうと推察する。

 この句について五千石は、自註(*1)に次のように書いている。


俳句によって、自分という存在が、ハッキリしてきた。

そうなると自分を中心に宇宙の全てが、いきいきしはじめた。


 実は、五千石は一浪のあと入学した上智大学二年の春頃、いわゆる神経症に悩まされていたのだ。

 五千石は、著書『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「俳句との出会い」のなかで、次のように記す。


大学二年の夏休みを、私は一か月も早くとらざるをえませんでした。

神経症が高じて、どうにもならなかったからです。(中略)

死は私に直面していました。


 そんな状況にあった五千石は、帰省後に母の導きにより、秋元不死男の俳句に出逢う。

 同書によれば、後日、五千石が参加した俳句会は「忘れもしない、昭和二十九年七月十七日のこと」で、「私を苦しめぬいた神経症は、その夜をもって完全に雲散霧消、神経症の患者ではなくなった」という驚くべき事象の日であり、「かくて秋元不死男は私のいのちの恩人」となったのだ。

 さらに続けて「ゆびさして」の句にふれ、


俳句によって、初めて私自身と巡り会うことができたのでした。

言葉をかえて言えば、”私の中の自然を大切にする”ことを知ったということです。 

今日の私の生き方と私の俳句観は、すべてそこから導かれてくるのです。


と述べている。

 ちなみに7月17日の俳句会というのは、秋元不死男が出席した吉原市(現富士市)での「氷海」吉原支部発足の会であった。この件についてはまた別途述べたいと思う。

        ◆

 「ゆびさして」の句が成ったのは、先の神経症の件が起こった昭和29年5月頃から数えておよそ1年8カ月後、ということになろうか。この句は、五千石の、俳句開眼の一句であり、自我開眼の一句、そして「いのちの一句」でもあったのだ。

 若き五千石の青春が迸っている作品である。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊

*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』 角川学芸出版刊


●―10:憲吉の句/筑紫磐井


汝が胸の谷間の汗や巴里祭


 憲吉の極めつけといってよい句である。しばしば、この「巴里祭」の句以外憲吉には何も残っていないではいないかと批判する人がいるが、そうした人に限って憲吉の「巴里祭」に匹敵する程の句を持っていたためしがない。この句に匹敵する名作はそう簡単には見つからないのである。もちろんわたしは以下の連載で、「巴里祭」の句以外憲吉には何も残っていないという迷信を打ち壊したいと思うのであるが、その意味でも1回目に取り上げるべき句だと思う。


 「巴里祭」とは、7月14日のフランス革命記念日のことであるが、もはや風俗としては何の痕跡も残っていないのではなかろうか。この句の詠まれた背景には、憲吉の若かりし時代、彼と同世代が背伸びをして見たであろうルネ・クレールの「巴里祭」(Quatorze Juillet 1933年フランス映画)を抜きにしては語れない。内容は巴里祭の前後の男女の他愛ないものがたりだが、灘万のボンボンとして生まれ、慶応大学を出て、やや前衛風のかっこいい俳句をつくる憲吉にはふさわしい映画だ。上演はたぶん憲吉12,3歳の頃である(遠藤周作が同級生だ)。だから、この映画を見なくなった現代では共感が乏しくなるのも致し方ない。


 映画巴里祭の流行った二・二六直前の騒然とした時代の、少しエロチックな、しかし明るい時代雰囲気は、戦後の同じような時代を生きている憲吉にピッタリする。「谷間の汗」で上気している若い女の生理までもがにおい立ってくるのは、この作家特有の観察眼である。この作者の句に登場する女たちはみな個性的で美しい。(作者による卑俗な自解があるが興ざめなのでここでは紹介しない。)


 出典は『楠本憲吉集』(昭和42年)、昭和28年の作品。


●―11:赤尾兜子の句/仲寒蝉


音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢  『蛇』


 少し前までは兜子と言えばこの句しか知らなかった。意味が分っていたかと問われると自信はなく、好きかと問われるとさほど好きでもなかったが、何故か気になる句であった。いわく言い難い不思議な雰囲気をたたえ好悪の彼岸にあるような句であった。

 兜子の句を字余りという観点から見ると、初学の頃の『稚年記』はほぼ定型遵守、『蛇』の最後の章「坂」あたりから字余りの句が8割を越え、次の『虚像』では9割以上が字余り、それが『歳華集』の最後あたりで減少し、死後に編まれた最終句集『玄玄』ではまた定型が多くなる。仮名遣いも初期の『稚年記』は歴史仮名遣い、『蛇』『虚像』『歳華集』など全盛期の句集は新仮名遣い、最後の『玄玄』はまた歴史仮名遣いに戻るのでこのことと字余りとが明らかに連動している。その意味では掲出句は7-7-5と字余りながら同じ『蛇』に収められた「ゆうべ真つ白い玉巻キヤベツ抱いて思うことないぞ」「場末の木椅子にちぢれ毛絡ませ記者ら酔う」「ナイフが掠める檻の汚れた空で蒸す夜景」などと比べれば随分と大人しい印象である。

 兜子の句は言葉を尽くして細部を描写しているように見えても同じ時代の所謂「写生」を目指した句とは全く印象が異なっている。詳しく描かれることと分りやすいこととは別次元の問題だということを思い知らせてくれる。先に挙げた3句を例に取っても「ゆうべ…」は白い玉巻キャベツというはっきりしたイメージを抱かせるものの何を「思うことない」のか判然としないし、「場末の…」はかなりの細部描写であるのに木椅子の置かれた場所が屋内なのか屋外なのか不明なので記者達は宇宙空間のどこかにでもいるような無重力感がある、「ナイフ…」に至っては一つ一つの単語の意味は追えても総体としてのイメージは非常に漠然としており何故この語とこの語が結び付くのか謎のまま放り出されている。

 そのような句に混じって掲出句があるということを知った上で読み解いてみよう。名詞4つと動詞2つから成り字数の割には意味が凝縮された感がある。これだけ言えば充分だろうと思えるほど言葉は尽くされている。でありながら頭の中で容易に像が結べない。読者はゴツンゴツンと言葉にぶち当たりながら自分の位置を考えつつ進んで行かなくてはならない。幾つかの謎が読者の前に立ちはだかりなかなかスムーズに前へ進めないのだ。

 音楽とはどのような?ベートーヴェンの交響曲みたいに重々しいものか、それともこれの書かれた昭和30年代前半に流行った春日八郎の『お富さん』や石原裕次郎の『俺は待ってるぜ』のような流行歌なのか。岸は川岸か湖岸か、或いは海の岸か。「侵しゆく」の主体は蛇なのか飢なのか。勿論それは読者に委ねられているのだから鑑賞は自由なのだが、書かれているのが尋常の光景でないだけに夢でも見るかのような印象がある。むしろその曖昧模糊を狙っているとも言える句なのである。

 赤尾兜子の句の造りは見た物、経験した事をなるべく素直に「単純なる叙述(虚子)」によって表現する行き方からは対極にある。掲出句をもしも作者が実際に目にした出来事と仮定すれば、例えば川岸を獲物を探して蛇がくねりながら進んで行く、その向こうに公園があってゆったりしたムード音楽が聞こえて来る、といった情景を思い浮かべればよい。これを俳句に仕立てるのに音楽や飢といった言葉は不要である。ただ川岸とそこを進む蛇を簡潔に表現すればよい。ところが兜子は背景に音楽を漂わせ、蛇を飢えていると看破し、あえて「侵しゆく」という措辞を選んだ。そのことにより句はどうなったか?良くなったか否かは読者の考え方次第。しかし少なくとも川辺を進む蛇を詠んだ凡百の俳句とは全く異なる世界観を持った句に変身したことだけは確か。あたかも音楽に合わせて湾曲する川岸をパックマンのように蛇が齧ってゆく、その飢は留まる所を知らず蛇は岸の続く限り地の果てまでも進んでゆく…と言ったところだろうか。


●―12:三橋敏雄の句/北川美美


日にいちど入る日は沈み信天翁


 人は一生を通じて、「こころ」という不思議な作用に左右される。時代、環境に翻弄されながら「こころ」を持つ「人」として成長していく。経過する時の中で肉体、脳が老いていく。記憶の中にとどめたくない事象に遭遇し、年齢とともに「こころ」が磨り減っていく。それでも日(陽)は昇り、日(陽)は沈み、一日が展開する。生きる者に、朝が来て、昼が来て、夜がくる。そして、春が来て、夏が来て、秋が来て冬になり一年が終わる。人も動物も植物も営みを繰り返えす

 掲句は、三橋敏雄 句集『眞神』(ま(・)かみ ※注)31句目に収められている。昭和44年、敏雄49歳の時の作である

 『眞神』には全体を通し不思議な時間軸が流れる。浮遊した時の中で、身体的といえる言葉を通しタイムスリップしたような世界に引き込まれていく。現代詩とも、絵画とも、映像とも共通する、それまでになかった17文字の世界が展開し、次の句へと連鎖するような錯覚をし、不思議な迷宮を体験する。『眞神』は生生流転の人間世界、自然界を背景にしている

 上五中七のたった十二音節「日にいちど入る日は沈み」において、地球の自転を潜ませ日没から日昇までの時間経過を暗示している。繰り返しながら、日々失っていく何か。「日」という陽に対し、「沈む」という陰。全滅の危機に瀕する「信天翁」(あほうどり)の、「天」を「信」ずる「翁」という表記。使徒のような鳥が重く沈む日(陽)をみている。視点は鳥である。読者が鳥になったような錯覚を起こす。読者は、自分の人生や時代を思いつつ、ただこの句を前に自分を投げ入れるのではないだろうか

 アメリカの「失われた世代」(ロスト・ジェネレーション)とは、ヘミングウェイやフィッツジェラルドの小説家に代表されるような20代に第一次世界大戦中に遭遇し、従来の価値観に懐疑的になった世代をいう。『日はまた昇る』(原題:The Sun Also Rises)は、ヘミングウェイの出世作として有名だ。その序文に記された言葉を引く

 傳道之書(アーネスト・ヘミングウェイ『日はまた昇る』谷口陸男訳


 「世は去さり世は来きたる地は永久とこしなへに長存たもつなり 日は出いで日は入いりまたその出いでし處に喘あえぎゆくなり(略)」


 上記の言葉は、旧約聖書 第一章であるが、これには省略されている冒頭箇所がある。「ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。

 これを掲句に結びつけると、神の使徒「信天翁」は、いっさいの空にいる自由な阿呆(あほう)。崇高でありユニーク。『眞神』には所々にシャーマン的な存在が登場するが、注意しなければならないのは、『眞神』は物語ではない。俳句集である。読者が慣れ親しんできた言葉を使用しながら、俳句形式の中で読者を別の世界へ連れて行く三橋の冷静で巧みな術がある

 戦争という体験は、三橋に多くを語らせず、しずかに、海から陸をみるという視点をもたせた。大人は泣き叫ばず日常を淡々と生活できる。大人は考えることができる。大人は時間を操作できる。掲句は、大人であること、人生の時間について改めて想いをめぐらす一句である


※注)『眞神』の読み方は、様々あるようだが、筆者は「ま(・)かみ」と読む。


【補足】北川美美は2021年1月14日になくなった(享年57)が、BLOG俳句新空間の創始者・管理人であり、「戦後俳句を読む」においても三橋敏雄作品を鑑賞し、これをもとに『「眞神」考』刊行(2021年ウエップ刊)にまとめた。この連載研究の趣旨をもっともよく体した論者であった。

 この連載で友人たちと切磋琢磨しながらまとめた論考が単行本として完成したものであり、この連載研究がどのように発展したのかは北川美美を比較対照して眺めることによりよく理解できると考え、物故者ではあるがこの連載復活に当たり掲載させていただくこととした。ただし、この連載の後、北川は三橋論を「ウエップ俳句通信」で再連載し、更に『「眞神」考』原稿の段階でまとめなおしたので、北川の最終見解とは少し異なるところがあるので注意されたい。