句集『潛伏期』(橋本喜夫、2020年5月刊、書肆アルス、「第35回北海道新聞俳句賞作(2020年)」)を再読する。
中原道夫氏による帯文を先ずは、記して置く。
まだ融けぬ二人使(ふたりづかひ)の唇の雪
橋本喜夫の句に頻出する「死」の数は尋常でない。それは奥方の死もさることながら、それ以前からのことであり、医師として日常隣合わせにある状態が「死」を受容する体質にしてしまった結果かと思う。内容は厭世的(ヘシミスティック)かというと必ずしもそうでなく、形骸化された「死」を詩的に彫琢することで自分を鼓舞しているフシがある。全篇、死体安置所(モルグ)の死臭、かすかなエーテルのにおいのような通奏低音で、我々を麻痺させようと目論んでいようとも善しとしよう。北に住み、更に俳句の極北を目指す一匹の「狼(ヌクテー)」には強(したた)かな知恵と情熱(エネルギー)、それが橋本には憎らしい(・・・・・)ことに具っている。
二人使(ふたりづかひ)とは、何だろう。
広辞苑(第六版)によると「死亡の通知にゆく人。二人が一組になって行く。」とある。
私は、この言葉から共に生きている二人の唇を、連想して誤読していた。
二人の掛け合いは、この唇から生まれる。
その会話の言葉の一語一語は、シャボン玉みたいにキラキラと儚くも美しく宇宙(そら)を輝かす。
だがこの俳句の上五には、「まだ融けぬ」があり、そして最後の「唇の雪」で、ふっと現実に引き戻される。
唇に焦点を当てたクローズアップ手法。
この句の世界は、死を告げるための二人の使者の唇の雪が、まだ融けずに刻々と未来の死へと歩んでいく。
やや寒し橋本喜夫妻由美子
二人の会話(掛け合い)は、いうなれば花。
花やかに風と戯れ、月や太陽の光を一身に浴びている人生の惜別の二人の使者がひたひたと忍び寄るようだ。
降り注ぐ雪は、まばゆく真っ白な未知の白いページへ誘う。
宮沢賢治の妹への惜別の詩「永訣の朝」が、静寂に二人の会話を永遠にとどめたのを思い出す。
体からしだいに熱と光を奪うはずの雪は、静かにめぐりめぐる日々の回想の翼が描き出す読み手の白いページに佇ませる。
問診は相聞に似て百千鳥
愛するってなんだろうっ。
万葉集の相聞。
相聞とは、互いに安否を問って消息を通じ合うという意味の言葉。
雑歌・挽歌とともに『万葉集』の三大部立を構成する要素の1つ。
橋本喜夫さんの医師としての気遣い。
俳句にもその真摯な姿勢が、終始、垣間見れる。
共鳴句の中にも日々の日記のように綴られている。
観察眼が詩的表現の言葉に磨きをかけて光る。
天眼をとり落としたる雪達磨
さみしくて死ぬことのあり白兎
寒蜆かすかに動きたる銀河
青蜥蜴緑(アク)柱石(アマリン)の中に死す
美しき日本でありしころの羽子
ふらここの月夜に弦を垂らしけり
新聞に巻かれ新巻鮭しづか
放置自転車春光を放つなり
寒昴燈さねば家なきごとし
雪達磨の天眼があるのだろう。それを取り落とすことで人間の所作らしさが滲み出る。
さみしくて死ぬことがある白兎のこととか。
寒蜆は、かすかに動くのを銀河の胎動と見る。
蜥蜴が緑柱石(アクアマリン)の中で凍るように死んでいるという。そこに永遠性さえ感じる。
羽子板の羽子が舞うさまに美しい日本を見出す。では今の日本はどのように見えるだろう。
「ふらここ」はブランコとも。その月夜に弦を垂らしたように見出す詩的な世界観も素敵だ。
新聞に巻いた新巻鮭は、生け捕られた時の荒々しさが、静かな銀河のように漂う。
放置自転車は、春光を吸い込んで放射しているようにも見える。
寒昴でも燈さないと家は無いようにもひっそりと存在を消している。
これらの俳句には、静かにポエジーを孕んで胎動している。詩的生命の芽吹きがある。
あとがきで橋本喜夫の言葉があふれんばかりの感謝を綴る。
「今回第二句集を纏めるにあたり、自分の句を俯瞰的に読むと、なんでこんなに暗くて深刻な俳句が多いのだろうとすこし呆れてしまいます。ただ、この期間になんとか正常な精神状態で仕事をこなし、生きて来られたのも、俳句が生身の私の身代わりになって、慟哭してくれたお陰かもしれないと思うようになりました。そういう意味では俳句という文芸、そして俳句を通じて知り合った友人たちには、感謝しても感謝しきれません。」
句集『潛伏期』の妻への橋本喜夫俳句は、まだ心の中でも融けずに二人の唇の雪があるのかもしれない。
春暁や運河のやうに眠るひと
海明や妻の口歌(くつうた)みな挽歌
着ぶくれて喪主はあたふたするものか
去年今年燃費の悪いひととゐる
病む妻に泪拭かるる明易し
食べられぬ妻に新米すすめたる
葱を切る女をけふの神とする
春の暁(あかつき)に運河ののように眠るひと。それは、雄大な詩にもなる。そして愛しき人でもある。
海明(かいめい)とは、北海道のオホーツク海沿岸地方で、春になって流氷が沿岸から離れ、出漁が可能になること。妻の口ずさむ歌が、みんな挽歌のように聞こえ出す。
着ぶくれて喪主は、あたふたするものか。その心情や。
去年今年は、燃費の悪い人といる。どう咀嚼すればいいのだろう。様々な葛藤を抱く人間は、人間味があっていいのだが、その時の心情を吐露し続ける。
病む妻に涙を拭かれて夜が明けていくことも。
食べられぬ妻に新米すすめる。陽気に気丈にだけれども人間のあーだこーだ悩みながらもあるのに。
葱を切る女は、妻なのだろうけど今日の神とする心情よ。
新型コロナウイルスの感染拡大防止の時期の私も冬籠りをするようにステイ・ホームの日々を過ごしてみて日々を丁寧に生きたいと感じていた。
句集『潛伏期』(橋本喜夫)の愛に触れて、この橋本喜夫俳句に忍び寄る死は、誰もが抱えている心の奥底に潜む二人の使者なのかもしれない。
俳句というか。人生の先輩は、真摯に人生に向き合い、愛に向き合い、死に向き合う。
それは、生きることに本気で向き合っているからこそなのだ。
私には、二人使の句を誤読してしまうくらいに愛や死は、漠然としたものだった。
誕生も死も私たちの出会う人間交差点で大切な人生の財産になる道程なのだ。
人生は、いつも何かの潛伏期なのだろう。
それが死というものへの発芽だとしても人類は、愛という果実を成しながらめぐりめぐる人生の道程を歩み続ける。
この句集に流れている死への不安を乗り越えていくための俳句模様は、やはり橋本喜夫俳句という生きざまだ。
喜びも悲しみも共に生きてきた橋本喜夫さんと妻・由美子さんの愛は、出逢うならば惜別までも俳句の果実と成す。
橋本喜夫俳句に出会えて良かった。
花のある俳句だけでなく落花の余韻まできちんと詠める愛は、輝ける日々が宿し、悩み苦しみ、そして喜びを噛み締めて成長してきた人間にしか見えない世界なのかもしれない。
コロナ禍の時期と重なり、自己の死と向き合い、そして生きることに向き合った句集『潛伏期』が、いつの日か。生きる喜びの果実の収穫期をめぐりめぐってまた季節の移ろいのように迎えてほしい。そこには、新たな橋本喜夫俳句が実り多きことを願いたい。
共鳴句をいただきます。
薔薇匂ふいつも何かの潛伏期
母泣かすことのたやすき花御堂
彗星の尾にゐるごとく涼むなり
菜虫とりNASAの研究費をけずる
かまいたち綺麗に縫って泣かれけり
春暁やいつか遺品となる眼鏡
告知して下さいますか春の月
父の日や代はりに犬が叱られる
春の夜の折鶴胸に置き飛ばず
こころとは顔のなきもの心太
藤椅子やどこへも行かぬことも旅
湯冷めして何やらレトルトの気分
口を出て毬歌われのものならず
リラ匂ふなかを黒衣の列すすむ
わが死後を廻りつづける扇風機
嫌われてしまへば無敵なるカンナ
螢烏賊ほどの肉欲ありにけり
手花火のこんな近くにゐてはるか
深雪晴こんなしづかに列車混む
人間に生き腐れある春炬燵
白酒やひとりの声を肴とす
【初出 -BLOG俳句新空間- 2020年6月12日金曜日 】
「輝ける日々の橋本喜夫俳句」(句集『潛伏期』より) 豊里友行
https://sengohaiku.blogspot.com/2020/06/138-003.html
※この句集鑑賞では、言葉の意味や読みを広辞苑(第六版)、デジタル大辞泉などを参考にしたり、引用しています。