2024年5月17日金曜日

【広告】加藤哲也『俳句の地底Ⅴ』(2024年5月15日 日本プリメックス社)

 加藤哲也『俳句の地底Ⅴ』が刊行され、豈・俳句新空間の関係者の著書が批評されているので紹介したい。著作の冒頭、及び各編のむすびを紹介する。


はじめに

私は、二〇一九年から二〇二〇年にかけて、[俳句の地底]と題して、I~Ⅳまでを一応シリーズ的に出版したことがある。その当時は、いったい俳句とは何かという思いが常にあって、それに思いを馳せての著作であって、山本健吉の著作を持ち出したりしながら、俳句への洞察を深めていこうとしたものだった。だが、その後はしばらくは俳句作家の方に興味が移ったこともあって、ここ数年はその方面の著作からは遠ざかっていた。

 だが、ここしばらく眺めていると、時折だが、俳句に関する興味深い著書が見られるようになってきた。そんなこともあって、今回は、シリーズの第五弾として、俳句に関する最近の著書に対する批評的な鑑賞を行ったものである。

 今回取り上げた本は三冊。

『切字と切れ』(二〇一九年刊・高山れおな著)、『渾沌の恋人』(二〇二二年刊・恩田侑布子著)、『戦後俳句史-三協会統合論』(二〇二三年刊・筑紫磐井著)である。恩田の著作は日本文化論ではあるが、やはり恩田が俳人であることから、俳句論もふんだんに盛り込まれていて興味深い。

 これらの書を見ながら、それなりに批判も加えながら、俳句について様々な考えを思い巡らせたものであって、それが少しでも俳句というものの理解に繋がればいいと思っている。


『切字と切れ』むすび

  確かに、れおなの最後の一文は重い。切字も含めた、その意味合いがそこまで否定的かどうかはやはり気になるところであるが、これからの進むべき道はここに示されているというべきだ。俳句の「主題や主体の問題」というのが、今後の一番の課題かどうかは別にして、あたらなる俳句の局面を切り開いていかなければならないという、れおなの決意めいた指摘は、なるほどと言わざるを得ないのである。

 だが、それでもくどいようだが、本当に「切れ」に期待してはいけないものなのだろうか。「切字」そのものは連歌時代からの歴史もあってある意味「俳句」の伝統であるとすれば、そこから派生したと言うこともできる「切れ」という言葉もあながち伝統からまったく無縁とは言えないのではないか。そしてまた、いま特に「切れ」に拘っても、れおなの言うように大きな問題があるわけではないのだから、そこに何某かの希望を抱くのがそんなに。悪yことなのか。れおなが言うことはまったく否定はできないのだが、「切れ」に一縷の望みを抱いたことをあながち責めることはできないし、否定することもできないのではないか。最後に私か感じたのはやはりそういうことであった。


『戦後俳句史-三協会統合論』むすび

 最後のこのあたりの文章には、感動すら覚える。そこは間違いないであろう。俳句が世界で最高の詩型でありたいと願う気持ちは誰しも同じだろう。そしてまた、新興俳句史観と戦後俳句史観の論争もまたそれはたしかに重要であるに違いない。

 いままでの磐井の論説のすべてをそのまま鵜呑みにすることは出来ないとしても、確かにこれからの俳壇のためにも、三協会の統一というのは成されてもいいように思える。実際、その対立軸を見ても、いまではほとんど問題にならないとすればである。そこは磐井の言うとおりであろう。ただ、実際に統合するとなると、理屈や原理を超えた煩雑さ、建前論が出てくることは間違いない。だからこそ、磐井のように三協会のすべてに所属し、一石の協会の幹事でもある人物によって、いまこそそういう活動に入ることが出來ればと思うのは私だけではないだろう。

 と言うことになれば、俳人協会、現代俳句協会の両協会における重要幹事であり、日本伝統俳句協会の会員でもある筑紫磐井こそが、それを成しえる最大の人物であるに違いなく、これから先において、必ずやそれを成し遂げてくれると信じてやまないのである。