2024年5月17日金曜日

【新連載】伝統の風景——林翔を通してみる戦後伝統俳句 6 林翔の言葉  筑紫磐井

 『林翔全句集』を上梓するに当たりその共同編集人でもあり、発行元であるコールサック社の鈴木比佐雄氏と林翔の生前の活動についてしばしば話をする機会があった。特にその評論活動については『林翔全句集』にもその一部を載せたが、全貌をうかがい知るものではなかったのでお互い心残りであった。鈴木氏の勧めもあって、BLOG「俳句新空間」で林翔の記事を連載しているが、準備がなかったため少し中断していた。俳句作品だけでなくて評論活動やエッセイも掲載してみたいと思っていたが、連休中に少しまとめたものが出来たので掲載することにする。

 林翔の評論活動では、特に一巻にまとめた『新しきもの・伝統/ 林翔評論集』は長大な評論が載せられていた林翔を理解する手掛かりとなるが、むしろ短い時評に面白い記事が多かった。特にこうした時評を読んでいると今と少し違う伝統俳句の論壇があり、それに対して林翔が批評しているのが伺えて時代の変化を感じる事が出来た。

 出来るだけ林翔の生の言葉を引用しながら昭和50年代の伝統俳壇を伺ってみることにしよう。

 

イメージ論

 ――沖俳句のありようについては、初期から一貫して明確な指針が示されていた。「沖」の編集長時代の「イメージを考える」企画もそうした現れの一つであった。


 「われわれは何故イメージで俳句を作るか? それは既にわれわれが現実だけでは満たされなくなっているからでしょう。

 ロマンティシズムは、現実に満足しないでそれ以上の美を求め、空想の世界に遊ぶというような傾向がありますが、俳句の世界においてロマンティシズムと名付けうるほどのものはありませんでした。それは、俳句はその属性として、どうしても現実の「もの」に関らざるを得なかったからだと思います。短歌では、与謝野晶子によって代表される明星派の短歌が浪漫主義と称されていること、皆さんご存じのとおりですが。しかし、俳人にも「あこがれる」心はあります。古来の有名な俳人の中では、蕪村が最も浪漫的傾向の強い俳人であったと思いますが、蕪村の有名な句は、ほとんどがイメージで作られているように思われます。写実だったら、あんなに美しくはならないでしょう。」


 ――こうして蕪村、秋櫻子に触れた後、当面の課題を摘出する。


 「今、俳壇は、進むべき道を求めて模索しています。進むためには、先ず原点に立ち返って方角を見定めなければなりません。原点の取り方によって、進む方角もそれぞれ違ってくるわけです。たとえば森澄雄は、原点を芭蕉晩年の「軽み」に置いているように見受けられます。一方、鏖羽狩行は、更に遡って俳諧の理知的なおかしみに原点を求め、その理知の面を推し進めているように見受けられます。

 では、わが『沖』俳句の原点は何でしょうか。それが『あこがれ』であると私は言いたいのです。」(「『あこがれ』について」 54年3月)


 ――これは取りも直さず、「(能村登四郎の)『ぼくは俳句という形の詩を書きたい』という言葉ね。これはとてもいい言葉だと思うんですよ。」(「現代俳句と「沖」」54年1月)にも通ずると思われる。伝統俳句が志向した「心象俳句の探求」(拙著『戦後俳句史』で述べたとっころである)から、この頃になるとイメージへの志向になる。これは金子兜太と似ていなくもない。


軽み論批判

 ――では、逆に批判されるべき対象は何であったか。それは「軽み」論の議論が盛んに行われたとき、旗幟鮮明に現れている。当時山本健吉が盛んに芭蕉の晩年の軽みを尊重し、現代の軽み派として、龍太、澄雄、時彦を高く評価していたのだ。これに対して中村草田男が激しく批判をした。

 ――まず、有名な「去来不玉宛論書の」「鴻雁の羮を捨てて芳草の汁をすすれ」の一節を引いて言う。


  「去来が不玉に宛だ論書の一部をくだいて書いたのであるが、ここには重要な示唆が含まれている。軽みは、重い俳句を達成した人が、新しい境地を求めてそれに転ずるのだ。まだ重い俳句も作り得ない初心者が軽みの意義を知り得るはずがないというのである。」


 ――次に、中村草田男にすらこのような意味での軽みはみられるとして、


  「俳句の思想性を重んずるその重くれた作風が、しかし、若い俳句作者たちの憧れであった。食べ物でもそうだが、若い時は脂こいしつこいものを好み、老いてから淡白なものを好むようになるのである。若い時から鴻雁の羮よりも芳草の汁がよいという人は、病弱な人か何かで、まともではない。

  「軽み」が作家個々の内面における流行である間はよいが、もしこれが全俳壇に瀰漫するということになると、これは問題である。それは現代の俳句そのものが病体になったということであり、俳句の滅亡さえ予測されるからである。」


 ――ひっきょう、軽みというのは作家の弱さではないのか、と問う。響くべき切字を使えない者が軽みに迎合するのではないか。


  「それでも切字を使おうと努力する人はまだいい。切字を使うことを面倒がり、意味さえ通じればいいではないかと、およそ詩性を放棄した言葉の遊戯に堕しかかっている。こういった、切字の重みを嫌う傾向か、軽みへの迎合となっている風潮も見逃せない。」

  「切字の無い句は発句の体をなさず、連句における付句の体であるから、発句から発展した純正な俳句とは認めがたいのだが、仮に百歩を譲って、十七字で季語も入っているから俳句であるという言い分を目をつぶって聞くにしても、切字のないだらだら句は、めりはりも利かず弱い。その弱さを「軽み」と誤解し、軽みの俳句に親近感を抱いてしまうのである。」(「軽みの真義―」「壺」53年7月)



俳句芸能説批判

 ――同じ議論は「俳句芸能説」が現れたときにも、激しく主張されている。俳句芸能説は俳文学者の桜井武次郎が唱え、坪内稔典が賛同していたように記憶している。


  「有季定型ということも一種の型には違いないか、芸能における型とは大分性質が違う。芸能においては型を学ぶことがすべてだと言ってもよいほどで、初学者などはそれだけで精いっぱい、型の中で自己の創意工夫を生かせるような人は、名人上手と言われる少数の人だけであろう。これに反して、五七五の定型などは一分間で頭に入ってしまう。小学生でも指を折りながら定型俳句を作れるのである。型そのものに価値があるとは言えない。季語にしても、生活の中で日常経験しているものが多く、特殊なものだけを歳時記で調べればすむので、「型」として師匠から叩き込まれるといった筋合のものではない。……

 俳句は決して、型を学ぶ芸能ではなく、学ばずともわかる簡易な型の中でいかに自己をーー生活や自然を通しての自己をーー表現するかという文芸なのである。」


 ――やがて論を転じて、俳句芸能説を主張する人自身についてシニカルな矢を放つ。


  「俳句が芸能だと言われれば腹が立つが、実は『お俳句』が芸能なのだと言い直されれば別に腹も立たぬ。『お俳句』には確かに芸能性が強い。稽古事に過ぎないからである。

  『お俳句』作者が師に甘やかされて喜んでいる間は、いかに素質に恵まれた人であっても絶対に『真の俳人』になれるものではない。彼が真の俳人になるとすれば、それは、型にはまった句ばかりをほめて個性を閑却しているような師に断固反撥した時、その時こそが、真の俳人になる機会であろう。」(「俳句は芸能か」 57年7月)


 ――こうした俳句の伝統については、俳句芸能説が出る以前から主張されていた。一貫した明晰なロジックだったのである。


  「芸能における伝統と俳句における伝統と、これは全然違うと思うんですよ、ぽくはね。つまり芸能は昔のままで伝えていくのが伝統でし。うけれども、俳句は文学ですから、これはどうしても創造していかなくちやならない。ですから昔のままだったら、これは伝統とはいえないんですよね。」(「現代俳句と『沖』」 54年1月)


 ――ではこうして一般に言われる俳の固有性の否定を重ねていった上で、俳句の独自性をどこに見いだそうとするのか。

 膨大な論文を整理すると、俳句の特殊性を①切字、即ち二句一章で構成される詩型による内的往還性と②付句を要求する発句としての外的往還性(二律背反性)に分かち、「子規が連句を排したにも拘らず、子規の句には外的往還性があ」ったが、「秋櫻子・誓子以後、俳句は名実共に俳句となり、発句における二律背反性はその一翼を失ってしまった」として、「せめて内的往還性を強固に保つことが、現代俳句に残された道だが、そのためにはモノをしっかり掴まなくてはいけない。モノは外に実在するものでも、イメージでもよいが、現実体験を根底に置くイメージでなければ、読者の心中にもイメージを喚起する力をもち得ない」と結論を引き出す。

 まさしく、冒頭のイメージ論につながって行くのである。(「二律背反の文学-」 「俳句」 50年7月、「俳句の特性について」 51年1月)


秋櫻子とイメージ論

 ―――翔においてその俳句論の多くは秋櫻子を抜きにして考えられない。秋櫻于を語ることが現代俳句を語ることになり、未来を予言することになるのだ。

 ――まず虚子と秋櫻子の相克性がある。


 「きょうは美意識がテーマになったけれども、ほかの結社ではあまりこういうことを問題にしていませんね。やっぱり秋櫻子門の登四郎俳句というのが話の中心にすわっているから、自然そうなったんでしょうけれども、いまどういうわけか虚子ばやりでね、何かにつけて虚子の話が出ますけれども、歴史は繰り返すから、いずれまた秋櫻子的な美意識、美学というものが取り上げられる時代がくるとは思いますがね。」(「虚実の美意識」 60年10月)


 ――今読み返してみると、虚子の復活という現象はこの時期からあらわになり始めたのだと感じられる。秋櫻子の弟子であった藤田湘子がこの前後に虚子を称揚したことに始まるのではないかと思っている。林翔がこう言わざるを得ない俳壇の風景が出来上がっていったのだ。

 しかし繰り返しになるが、近代俳句は秋櫻子なくしては生まれ得なかったのである。


 「俳句の近代化は子規に端を発するが、前述の如く、子規は『発句』という名称を排しながらも、その作品は発句的であった。絶対に発句的ではない俳句、それは、俳句の近代化を歴然となし遂げた秋櫻子・誓子を俟って創り出されたのであった。つまり秋櫻子・誓子の句は、十七字それだけで構築された新しい世界を生み出し、十四字の脇を添える余地を許さない俳句、絶対に発句ではない俳句だったのである。これは、発句を作ろうとしながら言い了せてしまったために芭蕉に難じられた荷今や巴風とは本質的に異り、発句であることを否定する基盤に立っているのである。」(「謂ひおほせて何か有る」 59年7月)


 ――秋櫻子の美しい伝説の一つに「十二橋の紫陽花」がある。

  濯ぎ場に紫陽花うつり十二橋   秋櫻子

 潮来で詠まれた句のモデルを皆で捜したがついに徒労に終わり、秋櫻子の空想の産物ということになったのである。秋櫻子は後に〈私は、自分の見た紫陽花が幻影であったとしてもそれで少しも差し支へはない〉と断言する。不思議にも同じ経験が林翔に見られた。


  「二三日が過ぎた。あの藤の美しさは目に焼きついているのだが、あれ以来一度もその家の前を通っていない。不思議であった。急いで通り過ぎてしまっているのだろう。……日曜日に煙草を買いに出た序でに学校への道をゆっくり歩いてみた。無い。その家が無いのである。しかし住宅街を通る通勤の道はもう一本あるので、そちらにまわってみた。やはり無い。ではあの藤は何だったのだろう。夢にしてはあまりにも鮮やかだったのだが。帰る途々思った。実在していてもいなくてもいいではないか、その美に感動したことは真実なのだからーーと。」(「幻の藤」 49年6月)


 ――イメージの作家秋櫻子と林翔の美しい黙契であった。

 そして、こうしたことが、一見不思議と思われる前衛作家高柳重信の評価・共感へとつながる。恐らく、伝統俳人の中で高柳重信を悼む気持のもっとも深かったのは林翔ではなかったか。


  「高柳重信氏が七月八日に逝去された。つい先日、還暦を記念して『高柳重信を励ます会』が挙行されたばかりだというのに、何ということであろう。・・・・水原秋櫻子は純粋一途な人であるだけに、人に対する好悪の念も極端にはっきりしていて、前衛作家高柳重信はもちろん嫌われる方の側であった。高柳氏がいつか『俳句研究で水原秋櫻子特集を計画したんだが肝腎の水原先生がウンと言わないので流れちやった』と嘆いていたことを憶えている。そんなに嫌われていた高柳氏が秋椰子文学の最大の理解者だったことは皮肉である。秋櫻子没後間もない頃、或る会で偶然高柳氏の隣席になったが、秋櫻子の死を心から、しかも、〃理〃を以って惜しんでいた。」(「高柳重信の死」 58年9月)


エピゴーネンを排す

 ――林翔という指導者の厳しさは俳句指導の全般にわたって現れている。有季、純正定型、切字の意識的使用、抒情性、語法の正確性など俳壇有数の厳格な姿勢は、それがまた自在な心と相俟って、明るくしかしまた一面厳しかったといわれる秋櫻子の正統的な継承者の俤を彷彿とさせている。数ある中で、特にここでは、実作者に向けて放たれた模倣を排する語録を上げることにする。最初期の評論から一貫して流れる林翔俳句理論の特質を明らかにする思想だからである。


  「すぐれた作家が自分の表現意欲を十二分に満たそうとすると、古来の型には納まりきれなくなる。そこで型をはみだすことは作家としては当然あってよいのだが、俳壇では作家が同時に指導者なので、芭蕉が心配したようなこと(編者注――三冊子「能書のもの書けるやうに行かむとすれば、初心の道を損なふ所有り」)は、現代では枚挙に暇ないほど見られるのだ。例えば草田男が句中に鍵括弧を多用すると『万緑』には鍵括弧付きの句が無暗にふえ、楸邨が下五の字余りを多用すると『寒雷』に同じ型の句が多くなり、龍太が句跨りの破調句を多く作ると、『雲母』に俄然破調句が増えると言ったような時期がそれぞれあった。開拓者がやむにやまれずして編み出した型を、追随者はいとも簡単にその型だけを真似てしまう。」(「能書のもの書けるやうに」 60年3月)

  「冬耕の兄がうしろの山通る    龍太

 事情を知らない人がみれば、事実そのままの句と思われそうですが、この句は今から十年ぐらい前の作で、そして龍太の兄である人は、とうの昔になくなっているのです……。

 龍太は自分でイメージを呼び出したのですが、龍太の真似をして亡き父や亡き母や亡き夫、亡き妻を歩き廻らせることが俳壇に流行ってきました。どこの句会へいっても亡者がぞろぞろと歩いている。これは困りますね。イメージは自分で創るものです。他人のイメージを借用して自分のイメージらしく見せかけるようでは、本物の俳人になれないでしょう。」

(「イメージを詠む」 52年1月)


 ――厳しくても必ず笑いがあるのが特徴である。

 そして、これを裏返せばこんな言葉こそいかにもふさわしい結論と思う。


  「芭蕉の言う通り、名人は危き所に遊ぶというのは、俳諧に限らず絵画その他あらゆる芸術に共通することである。・・・・読者の中には「自分は名人ではないから関係ない」と言い出す人が現れそうである。しかし待ってもらいたい。名人が危きに遊ぶのなら、名人たらんと志す人も、危きに遊ぶの気慨が必要なのではないか。」(「名人はあやふき所に遊ぶ」 59年12月)


おわりに

 以上短い時評をつなぎ合わせたところからまとまらない林翔論となってしまったが、書いた後で強く感じたのは、俳人協会分裂以後、伝統と前衛が対立し、それぞれ自分の陣地に閉じこもり、伝統は伝統、前衛は前衛の中だけで通じる批評しかしないようになったと言ったことがある。それが現在の俳壇無風につながっているのだと。しかしここに掲げた時評を読むと、この時期未だ辛うじて論争の種は残り、その火種を燃やそうとしていた人たちがいたのである。

 (※出典は、特に示した者以外「沖」である)