おわりに
私は一九六〇年安保闘争の時代に幼少期を過ごし、父の応召した戦争も、母たちが体験した内地の耐乏生活も、ユーラシア大陸の東に日本の築いた傀儡国家満洲帝国のあったことも知らずに、七〇年代安保闘争の学生運動のニュースを連日テレビの画面から見て育ちました。しかし、父の若かった時代の歴史を知らなければという思いは、常に心の中にありました。
子育てが終わり、父の体験した、ソ連(シベリア)抑留について調べ始めたのは、冒頭で約八年と書いたが、本の形になるまでに約十年の歳月が流れました。
その当時、辺見じゅん氏の『ラーゲリから来た遺書』を拝読し、主人公山本幡男氏のソ連(シベリア)抑留生活で、自分を見失わず誠実に人に接し、正義を貫いた生きざまに感動し、涙を流しました。この作品は、令和四年十二月九日、「ラーゲリより愛をこめて」という映画となり公開されました。この映画を観て、山本氏のようにソ連による満州侵攻と満州の崩壊に、巻き込まれた、抑留者約五十七万五千人、当時の満州の日僑難民一五五万人の過酷な運命と物語があることを忘れてはならないと、私は感じました。
本書をまとめるにあたり、戦後七十七年の時が流れ、体験者の話を伺うことが出来だのは、ほんの一握りの方に留まり、できるだけ多くの事例を取りあげたかったのですが、ご遺族のご了承を得られた作品にも限りがありました。私の体験不足のところは、俳句作品に合わせて書かれた随筆に、頼らざるを得ず、力の及ばなかったことに、忸怩たる思いが残ります。
この本が日本のたどった戦争の時代に生きた方々の体験をひもとき平和について考えるきっかけとなり、また極限状況にある人を支える俳句の力について、伝えることができたなら幸いなことだと感じます。
序章にも紹介した歴史研究者の諸先生、体験談を伺った方々や俳句作品を取り扱うにあたり、引用や要約のご了承を頂いたご遺族の皆様、拙著の基となった「寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む」のブログ俳句新空間への連載をお許しくださり、背中を押してくださった筑紫磐井氏に併せて心より感謝申し上げます。
また、私の取り組みを理解し、応援してくれた家族と、常に弱気な私を励まし指導してくださったコールサック社の鈴木比佐雄代表、校正・校閲の座馬寛彦氏などの皆様にお礼申し上げます。
最後に、私たち姉妹を大変な時代に、慈しみ育ててくれた両親と伯母に、この本を捧げます。
二〇二三年四月二十三日 サン・ジョルディの日に
大関博美
上梓その後➀ 大関博美
筑紫磐井先生にお会いしたことをきっかけに、私の父のソ連(シベリア)抑留をたどる旅をまとめた『極限状況を刻む俳句~ソ連抑留者・満洲引揚げ者の証言に学ぶ』を令和5年6月6日に上梓することが出来ました。昭和1945(昭和20)年8月6日、広島に原子爆弾が投下され、8月8日にはソ連が日本に宣戦布告し、8月9には長崎にも原子爆弾が投下、そしてソ連が満州に侵攻した日で、8月は正に祈りの月です。
さて、この度は拙著に託した私の思いについて、またこの本の作成にご協力いただいた、ご遺族や俳人の方の中でご了承の得られた感想をご紹介させていただきます。
父の体験したソ連抑留をたどる旅で、新宿にある平和祈念資料館での語り部の体験談を伺いに通う一方で、拙著のもととなるソ連抑留・満州引揚げ俳句を読んで参りました。これらの作品について、浅薄な私の知識では「なぜ日本は、日清・日露戦争他を経、日中戦争から太平洋戦争へ突き進まなければならなかったのか」「なぜ、大日本帝国は大陸(現在の中国北東部)に満州国を建国したのか」「なぜ、ソ連は日ソ中立条約の締結期間を残し破棄したのか」「なぜ、当時155万人もの日僑俘虜をうむほど多くの日本人が満州に渡ったのか」「なぜ、57万5千人のソ連抑留が可能だったのか」など分らないことがありました。そこで、戦争に至る歴史背景・ソ連抑留の体験談・ソ連抑留俳句・満州引揚げ俳句をリンクしその実相に近づくことにより、父母が戦争を体験した世代や戦争を知らないその子の世代にこれらのことを伝えたいと思いました。何の肩書もない私の言葉に、ソ連抑留や満州引揚げの体験者やご遺族の皆様は、耳を傾けてくださいました。多くの方々との出会いがあってこそ、この本は生まれることができましたことを、私は深く感謝しております。拙著では、「極限状況における俳句の果たした働きや句座の力」を主題とし、次の世代に語り継ぐ証言として、また、将来あってはならない戦争について投げかけを試みるという3層構造をなしています。ですから体験談や俳句による証言の凄惨な内容に心を奪われず、平和な未来を保つための今ここを考えて、お読みいただければ幸いです。
上梓後6月10日に、関係者の皆様に謹呈の本が発送されました。令和5年6月13日、高木一郎氏のご遺族の高木哲郎氏から、電話を頂きました。
《あなたから本が届き、名前に見覚えがあった。父の句集にあなたからの葉書を挟んでおいたのを思い出し、手紙を書くより早く気持ちを伝えたかったので、葉書の番号に電話を掛けました。父の作品をこんなに丁寧に取り上げてくれてありがとう。この本を手に取る人は、一握りの人かもしれないが、その人を通じて次の世代に伝わってゆく貴重な一冊だと思います。私には兄弟姉妹が他に4人います。4人にもこの本を持たせ、当時満州国建国や満州移民政策などの歴史を読んで、私たちが体験した、戦争について再認識したいと思います》
と、お話くださいました。 これから、歩き出して行く拙著にとてもありがたいご感想を頂くことができたことを嬉しく感じた日でありました。
上梓その後②
令和5年6月14日、小田保氏のご遺族のお嬢様から、手紙が届きました。その後電話で話をさせていただきました。拙著の感想をブログ「俳句新空間」に載せさせていただきたいとお伝えし、ご了承をえました。
まず、手紙の冒頭に、以前大関さんからの便りを、今は亡き母が「お父さんの作品を読んでくれた娘さんから手紙が来た」ととても喜んでいましたと、ありました。(以下電話での話を含めて引用する。)
《この本を読んで父の生きた時代の戦争のこと、シベリア抑留の事を深く理解することが、できました。やはり父も千島列島での戦いが激しかったことを話しましたが、多くを語りませんでした。私は俳句をしませんが、句ごとに添えられた、解説がわかりやすく、また、全章のまとめを読んで、父が死の間際まで抑留俳句や広島の平和についての俳句を読み続けたのか、理解できました。この本を母にも読ませてあげたかった。姉が夏に帰省したら、この本を真っ先に読んでもらいます。》
私からは、「私は、小田さんの著書に、この仕事をするように言われたように思ってい ましたし、くじけそうになる時は、何度もお父様の本を見て、自分を励ましていました」とお伝えし、電話を終わりました。
信州塩尻の百瀬石涛子氏へは、手紙のやり取りは大変なので、私から一カ月を待ち7月3日に電話を入れさせていただきました。百瀬氏は今年99歳になると言い、現在は車椅子で過ごされているそうです。私の電話にこたえてくださいました。
《本が届いて、1週間かけて読んだよ。たくさん調べて書いてくれてありがとう。戦争当時のおらたちに分からないことまで、調べてあった。この本を次に人に貸して、又その次に読む人も待っている。あんたのお父さんと私は、ほぼ同い年だ。お父さんがシベリアの話をしなかったのはよくわかる。シベリアから帰っても生活が苦しくて、家族も守らなきゃならんし、シベリアのことは誰にも話せなかった。今でも俳句は、毎日詠む。シベリアの句もね。月一回の句会には、娘に連れて行ってもらうよ》
百瀬氏にとっては、レッド・パージにより、国鉄を辞めざるを得なかったことが、長い沈黙の理由であったのだと感じる。百瀬氏の言葉から、私の父が子どもたちに対して戦争を語らなかったのは、戦争は勝者・敗者の別なく、加害者と被害者をうむこと、その体験が凄惨な体験であることから、思い出したくない、家庭に戦争の影を落としたくない、平和な家庭を守りたいという一念のあらわれだったのだと感じた。
私の父と同年の百瀬氏には長生きし、健吟を続けてほしいものだと思います。
上梓その後③ 大関博美
ソ連抑留者の体験談を伺い、それまで、ソ連抑留に目を向けていた私は、満州引揚げをソ連抑留と同等に取り扱い、書かなければならないと深く思い、新谷亜紀さんのブログで連絡を取り、私の取り組もうとしていることを伝えました。そして、亜紀さんから満州俳壇の形成や歴史を研究している、西田もとつぐ氏のご著書や、京大俳句を読む会の冊子をお送りいただき、井筒紀久枝さんの『大陸の花嫁』を書くにあたりましては、細やかなご助言を受けることができました。
この度は、亜紀様の承諾を得て以下の感想を紹介させていただきます。
《阿部誠文氏や西田もとつぐ氏にはなかった切り口で、いかに満州崩壊・満州引揚げ・ソ連抑留に至ったのか歴史をよく調べ、自分の言葉で伝えようとしているところ、私たちの世代が学校で学んでいない歴史を日清戦争から、紹介していることが良い。体験者やご遺族の一人一人に連絡し、コンセンサスを得ようとしたことが、筆の力となったと思われる。特に第3章からの俳句作品の紹介とまとめについては、圧巻である。満州引揚げやソ連抑留の俳句作品をリンクし、まとめ上げているところは、後世に語り継ぐ理想の形を見せていただいた気持ちで感動している。この本は後世に残すべき一書である。》
私はソ連抑留・満州引揚げ俳句を取りあげ、極限状況における俳句の担った働きや句座の役割や句座がどのように機能したかについて、「全章のまとめ」の中で考察しています。
また、第2章以降をまとめながら、自問自答したことがあります。
抑留体験者の山田治男さんや中島裕さんは、「憲法第9条が日本や国民を守ってくれるのか」と私たちに問いかけています。この問いかけに私は、拙著で現代との結び目を作りましたので、多くの証言のすさまじさに心を奪われることなく、お読みになり、今ここからの未来について、一緒に考えていただくことができたならこの上ない幸せであると感じます。
抑留兵の子である私から、平和の種が鳳仙花の種のように飛び散り、広まってくれることを祈ります。