千葉皓史(ちば こうじ)さんの俳句を読めば、大ベテランの俳人であることは御理解いただけるだろう。
1991年の千葉皓史第一句集『郊外』により第15回俳人協会新人賞を受賞。
帯の俳句も俳句の醍醐味を存分に発揮しているので拾い読みしてみよう。
濤音のどすんとありし雛かな
濤音は、「なみおと」とも読み、大きな波の音や 水の大きなうねりの音を意味する。その一瞬のうねりのドスンっと音が描かれて途端に雛が立ち現れる。俳句には、それだけしか描かれていないのにまるで鳥類のひなが、樹々の巣から落ちたその場の一瞬を目撃したような瞬間の文学が表出される。
このような俳人の神業が、ふんだんに盛り込まれたこの句集で何を私は、見出せるというだろうか。あるがまま拾い読みを進めたい。
この森の映つてゐたる木の実かな
まるで映画のロングショットの森の風景からそれを映し込んでいる木の実のクローズ・アップの映像の手法で千葉皓史俳句に惹き込んでいく。この移ろうような映像美の掌握を俳句において読み手の心までも見通すように俳句文学を創造しているようだ。
目を見せて浮かぶ蛙となりにけり
潜水艦のような目が浮かび、こちらを見ている。それは、こちら側にも目を見せていると把握することで蛙が生存競争の大自然にあって生き物の尊厳をも浮かび上がらせている。
東京を見失ふ雪しんしんと
東京を見失う。千葉皓史俳句の醍醐味は、これらの把握力の新鮮さ、斬新さ、そしてモノの本質を捉える観察力にある。雪がしんしんと降る中に作者は、大都市で作者自身の存在さえも希薄になりがちな大都会のその東京さえも抱擁するように雪は包み込み、己の存在さえも見失わせてしまうのか。
兎にも角にも千葉皓史俳句は、熟成の時を経て俳句の器へ人生を注ぎ込みながら結実していく。
また観察眼に裏打ちされたその俳句文学の大舞台を共鳴句と共にごらんください。
敲いてはのし歩いては畳替
枯菊の沈んでゆける炎かな
氷水つめたき匙が残りけり
ふさふさとほほづき市の立ちにけり
青とかげ蛇籠の中を走りけり
蝙蝠の栄ゆる空の暮れかかり
春雪の割れて沈める藪がしら
秋燕の押し上げられて集ひけり
摘みきれぬ土筆の中を帰りけり
赤ん坊の手ゆび足ゆび鯉幟
蟷螂をはらふ平手をもつてせり
真ん中に立たせられたる干潟かな
馬小屋に馬の納まる日永かな
手の届くところに夜の白つつじ
踏まれずにある一日の団栗よ
畳替の所作をしっかりと描く五感を駆使した観察力に脱帽。
枯菊が炎として沈む。そこには、徹底した観察力の鍛錬に裏打ちされた詩的イメージ化が昇華されている。
氷水と冷たい匙の存在感や鬼灯市がふさふさと立ち現れる。
青蜥蜴が蛇の籠の中を走り回る様や蝙蝠の賑わいは、暮れかかる空も鮮やかさなども春雪の割れて沈む藪がしらの描写も徹底した写生、観察力に裏打ちされている。
秋燕の飛翔の存在感を持って集いあう。その描写力。
摘みきれない土筆の中を帰ることのユーモアさ。
赤ん坊の手ゆび足ゆびの描写と鯉幟の配合の躍動感。
蟷螂を払うその平手のクローズアップ。
真ん中に立たせられる干潟での覚醒。
馬小屋に馬が納まる。その日永。
踏まれずにある一日の団栗がある。
一見、この2句は、平凡に見える。だが日常を詩に持ち込む術は、達人級だ。
手の届くところに夜の白つつじがあること。そこから俳句の読み手に委ねる業も達人のなせる業だ。描写力と言葉の喚起力がある。そこには、並々ならぬ観察力の鍛錬と人生の歳月が俳句に注がれてきたのだろう。
子の余す舞茸汁をすすりけり
うしろから息の白きを言はれけり
卯の花や子供がつかふ風呂の音
切薔薇をすくひ取りたる妻の指
春を待つ母はひとりにして置かれ
父母若き運動会が始まるよ
声ちぢむ水砲をしてゐるよ
父の亡き母の亡き草青むなり
跳びついて抱き上げらるる端午かな
いくつでも剥いてくれたる柿甘し
千葉皓史俳句の歳月には、優れた俳句の先生方や俳句仲間との出会いの財産があったであろうことは、あとがきにも記されている通りだと私は、勝手に想像してしまう。句集タイトルにある「家族」を楽しみに見てくださった先生方の存在も大切だろう。
子の残しものを味わうようにすする日常の俳句日記。後から抱きつかれ白い息を言い当てられる。その共有する悠久の俳句にこそ「家族」があるのかもしれない。俳人の五感が捉えた子が浸かる風呂の音も。切薔薇を掬う妻の指の妙技も。日常の荒波に急かされながら母を置く切なさも。運動会の掛け声も。水鉄砲を被弾して声が縮んだりするのも。果実のごとく跳びつく端午の成長の子の重みも。めぐりめぐって作者に何度も甘くて美味しい柿を剥いてくれた父よ。母よ。そして我が子よ。家族はめぐりめぐって地球の自転のように俳句に永遠のようにとどまるようだ。