ラジコンカー
冬青草ラジコンカーが突つ込める
潮焼けの顔の寄り合い大とんど
冬麗や虫の骸の青光り
寒晴や魚呑みきれぬ鵜が一羽
谷折りにまづは始めよ日脚伸ぶ
・・・
『男たちの宝塚―夢を追った研究生の半世紀』(神戸新聞総合出版センター刊)という本がある。
〈清く正しく美しく〉のモットーで知られる「宝塚歌劇団」に男性の団員がいたという話である。
過去の新聞の書評で見かけて何となく記憶に残っていたのだが、たまたま長男の家で見かけて借りてきた。贈呈本とのことで2007年7月6日の日付と著者・辻則彦のサインがあった。
「宝塚」といえば、「づか」との略称、男役・娘役とがあり、劇団員とは呼ばず研究生とか生徒さんと呼ぶ。或いはタカラジェンヌを省略してジェンヌさんと呼ぶ。そして本拠地である兵庫県の宝塚はムラと呼ぶ……等々のことは宝塚狂いの友人から聞かされているが、男性研究生がいたとは初めて知ったことだった。
昭和21年に最初の「宝塚歌劇団男子部」の研究生が募集され、当初は1回生2回生を合わせて8名の男性が在籍していたそうである。4回生まで募集があったとのことで、最終的には十数名になっていた。女生徒達にに遠慮しながらも、熱心に稽古をされていたようだが、結局、女性の演じる男役の美しさや人気にとけ込むには無理もあったようで、大劇場の舞台に立つこともなく、昭和29年になって解散ということになったという。
その後は芸能活動を続けた人もあるが、離れてしまった人もある。各人各様の人生を過ごしている人達の内、消息の分かる人を訪ねての記述にも多くを割いてあるが、こういう場合、語りたい人とそうでない人とに分かれるのは世の常である。
多分、現在の宝塚ファンにさえ知られていないであろう、男子部の話は資料としては貴重なものだと思う。
因みに私が名前を知っている唯一の人は西野皓三氏。この私が知っているぐらいだから、一番活躍されたのだと思うが、その西野氏が宝塚歌劇団男子部出身だったとは、この本を読むまで全く知らなかった。
バレエが得意で男子部解散後に「西野バレエ団」を設立。金井克子や由美かおるを育てたことなどでも知られた人であるが、この方も一昨年94歳で亡くなっている。
この本の出版からでさえ、すでに20年程が経っているわけだから、鬼籍に入られた人も多いはずである。取材の時期としてもぎりぎりだったと言えるだろう。
(2023・1)