面124号(二〇一九年四月一日)②
後 記
発行人である高橋龍さんが一月二十日に逝去された。一月二十五日小林幹彦さんより訃報を受けた。正月に龍さんから年賀状とは別に元日消印の葉書が届き、次号締切二月五日と記されていた。訃報の前に入稿済の同人がいらっしゃると予想し一二四号は私が進行を担った。
一月八日に入院された龍さんは御自宅への原稿到着を幾度も確認し、退院後の編集作業に意気込んでいらしたそうだ。巻頭の宮路さん、北上さん、扉絵の桶谷律さんへは龍さんが依頼していた。よって今回の発行人は高橋龍のままとした。発行人本人の追悼号という奇妙な体裁だが、今後の面について、編集を引継ぐアピールと思われることを懸念してのことだ。
俳誌の高齢化はどこも深刻な問題だが、面は今年四月一日で創刊五十六年に当たり、昭和四年生まれの龍さんが八十九歳で亡くなるまで十三年発行人を務められたことになる。原稿集めから編集すべてをひとりでやってこられた。龍さんの流儀があり手を出せない状況であったことも確かだ。一重に龍さんにとっては「面」というブランド力あってのことだろう。私は縁あって二〇〇四年から参加させていただき在籍十五年の間に「面」の気高い精神と戦後俳句における著名俳人の多さを知った。偶然に参加したとはいえ私が継続してきたことも面の主張しないブランド力といっても過言ではない。面は九十九号まで三鬼片腕の大高弘達さんが編集発行人を務められ、九十九号以後、敏雄先生の御意向もあり十七年問句会のみの活動だったと伺っている。敏雄先生ご逝去後二〇〇二年新スタッフにて一〇〇号が再刊された。
龍さん発行人の経緯は、二〇〇六年、当時の発行・世話人の長谷川さんに龍さんが運営についての苦言を呈したことが発端だった。紫黄さんのまもなく発刊の句集『瓢箪池』を多くの方に買って頂こうと長谷川さんの配慮があってのことだったが、「句会報に同人の広告を同封すべきではない」と龍さんの物言いに謝る長谷川さんだったが、更に龍さんの文言が続いた次の瞬間に長谷川さんは顔を上げ、本日で世話人を退くと宣言された。一か月後に紫黄さんの句集が刊行されたが二日後紫黄さん急逝。龍さんは句会だけでなく面の発行、運営、全てを背負っていったと記憶している。長谷川さんとの一件は龍さんの中で鮮明に残り、何度もあの時の話をされていた。意地もあっての発行人だったかもしれないが、編集は天職だったようで預けてくれれば句誌のみならず句集も何冊でも出せますよ、という意気込みだった。
その後も冊子発行に拘る龍さんだったが、最大の理由は大高弘達・芭瑠子ご夫妻がご存命の限り発行する、とおっしゃっていた。実質的な作業としては、発送は、隴さんが贈呈先、私が同人にと分業し、贈呈先リストは龍さんのお楽しみとして門外不出だった。時に校正依頼もされたが、ひとりの方が早いということで私は、入稿遅延、集金、督促の役回りだった。しかし奥付、角川年鑑等に「会計・北川美美」と長い間表記され、「ウチの会計のキタガワ」と呼ばれつづけることに、違和感があり、せめて「運営」と表記変更して、と懇願したが、何が違いますか、と無駄だった。
ある年の忘年会(十年前は年末恒例だった)に、ご無沙汰していた加茂達彌さんがいらして話しかけられた。「僕は面を放棄してしまった。僕のせいであなたにも迷惑をかけているのではないかな。まあよろしく頼みます。」と予想外の労いの言葉。またあるとき、遅延、欠稿になりがちな岡山の白石哲さんに退会かを確認するよう龍さんより迫られ連絡してみると‘私は面がある限り辞めないよ!会が変わっていくのは仕方ない。でも面がある限り私からは辞めません’・・と痛快だった。ことあるごとに私は歴代同人が精魂を込めた俳誌という理解を深めた。
そういえば、紫黄さんは面の運営について「私は三橋さんとともに殉死した」とよくおっしゃり、何も意見しない、というように解せた。創刊同人は明確な遺言を残さず亡くなっていく。深く面に関わり尽力された創川同人は大高弘達・芭瑠子夫妻だったのではないかと思うのだが、大高御夫妻がご逝去され、龍さんは面の運営、発行に更に意欲的になられた。論考においても「西東三鬼と広島」(一〇五号一二一号)の龍さんの原稿は珠玉であった。
現在、九十九号以降の句会活動のみの十七年と〇〇号再刊以降の冊子中心の十七年が同じ時問経過になった。ここで面について考える時期に来ているといえよう。今年中の審議が必要だ。
創刊同人の山口澄子さんの訃報は私が軽井沢で得た情報でご遺族に確認はとれていない。昨夏、山口さんが亡くなられたようだ、と龍さんに伝えたのが龍さんとの最後の会話になった。龍さんご遺族から受け収った書類の中に俳句四季出版「俳誌要覧」(二〇一九年版)の初稿があり、その中の一年の動向に、「創刊同人山口澄子没」という箇所があった。多分、面の誌面で山川さん逝去に触れようとしたという推測で今回掲載した。
山口さんの収材を理由に軽井沢でいろいろな方と知り合いになり、隣の店の方に山口さんへの手紙を託したこともあった。
紫黄さんの眠る駒込・吉祥寺近くにフランス雑貨店があり、墓参の度、店は盆休み中だが「軽井沢店営業中」とあった。その軽井沢店とは、山口さんの店「仏蘭西館」と囗と鼻の先にある「ビーマシー軽井沢店」だったのだ。なんという奇遇。
慶事として、山本鬼之介さんが俳句結社「水明」の第五代主宰に就任された。お祝い申し上げるとともに今後の御活躍を一同応援しています。お身体を大切に。
今回、外部である酒巻英一郎さん(LOTUS)、今泉康弘さん(円錐)に龍さんの貴重な足跡を作成していただいた。深謝申し上げます。
(北川美美)
本誌同人であり、一〇〇号再刊時の発行人であった加茂逹彌さんは療養中でしたが、二月二十五日に御逝去されました。哀悼申し上げます。
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