2022年10月28日金曜日

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(27)  ふけとしこ

 いつよりの

蒲の絮Peachの尾翼雲に消え

渡り鳥山肌に傷あたらしき

いつよりの閉店萩のなだれ咲き

客の無きバスの揺れくる下り簗

みづうみへ金木犀の香を歩く


・・・

 句会形式の初級講座(講師は3人の持ち回り)でさっぱり点の入らない人があった。高点句必ずしも名句にあらず、とはよく言われることではあるが、そうは言っても無点ばかりが続くと淋しいものだ。いつもつまらなそうな顔をしていて、どうしてあげればいいのか……気掛かりではあった。

  まず取材の段階から何かおかしい。題詠中心の講座ではあったが、新聞の見出しのような、テレビのニュースをちょっとつまんだような句ばかり出してくる。初心者だから技術が伴わないことは仕方がないにしても、なのだ。

 どうして? ある時訊いてみた。

 「○○先生が俳句は新しいことを言わないと駄目ですよと仰ったから。私はテレビも新聞も一生懸命見ているんです」との答が返ってきた。

 「みんなの句を見ているとちっとも新しくないのにどうして点が入るのでしょう?」

 つまり〈新しい〉の意味が伝わってなかったということになる。伝え方の難しさを思ったことだった。

 何十年も俳句に親しんできた人が、今日から始めます、という人にうっかり(?)言ったことがずっとその人に残ってしまうことがある。この先生もきっとこの部分だけが彼女に残るとは考えてもいなかっただろう。

 かつて私が誘われるままに入門した先生も今考えるとかなりひどかった。

 「テレビを見ているといくらでも句はできますよ。外を歩いてみたって細かいところが見える筈もないけれど。必要なところはテレビだと大写しにしてくれるし、説明もしてくれるでしょ。歳時記っていう便利な物もあるのだから、パラパラめくっていくと、いい言葉が見つかりますからそれを使ったらいいですよ」

 全くの初心者でありながら、生意気な私は何か違う、との思いを拭えなかった。選や講評にも反発することが多かった。結局義父の発病を機にその先生のもとを離れた。

 私の出発はそんなところからだった。吟行した方がいいはず、と思いながらも題詠中心でやっていたから、吟行苦手意識が抜けないままに今に至っている。そうでありながら、題を与えられて考えていると、不思議に野山を歩いて来た感じの句になって、臨場感があると褒められることが偶にはある。俳句が短い故に助けられているのだと思う。

 句歴も長くなると、知らぬ間に自分が指導する立場になってしまう。自分自身の句が未だあやふやなのにも拘わらず……。

 どうすればいいのだろう。

(2022・10)

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