一九八〇年代の名伯楽
二〇二二年の角川の『俳句年鑑』の物故俳人名彙を眺めて昨年一年で実に多くの著名俳人がなくなっていることに感慨を深くした。その一方で、漏れている作家がいることに違和感をもった。その一人が、宗田安正氏である(二〇二一年2月13日逝去)。その後5月に出た本阿弥書店の『俳壇年鑑』にこの点を指摘し、同年鑑では取り上げられたのは喜ばしいことだった。『俳壇年鑑』はその意味で『俳句年鑑』の補完的役割を果たしている(唯残念な事に『俳壇年鑑』は来年は刊行されないという)。
宗田安正氏は確かに誰でもが知っている俳人ではない。むしろ立風書房の編集人として、多くの名著を世に送り出し多人として知られている。編集とは縁の下の力持ちだから、句集著者ほどにはよく知られてはいないが、彼らがいなければ名著は世に現われないのだから決して忘れていい人物ではない。
宗田氏は俳句の実作から始まっている。昭和5年東京浅草に生まれ、結核療養中に俳句を始め、山口誓子の「天狼」に入会し巻頭を得ているが、大学入学後直後俳句から離れ、出版社の編集に専念した。しかし一九八三年、寺山修司が亡くなる直前構想した「雷帝」に参加を要請されたことにより実作を再開することとなる。
「雷帝」は小説家倉橋由美子・編集者齋藤愼爾・宗田安正・寺山修司・音楽家松村禎三・三橋敏雄という異色の顔ぶれの六人による同人誌である。三橋以外は俳人として知られることもなかった。いかにもジャンルオーバー好みの寺山らしい顔触れだ。この企画は、発起直後の寺山の死により頓挫したが、やがて残った同人たちの発意により、一九九三年「雷帝創刊終刊号」と言うかたちで日の目を見た。
俳句を再開した宗田氏は、『個室』(一九八五)、『巨眼抄』(一九九三)、『百塔』(二〇〇〇)、『巨人』(二〇一六)の句集、『昭和の名句集を読む』(二〇〇四)、『最後の一句――晩年の句より読み解く作家論』(二〇一二)の評論集を刊行した。特に顕著なのは、編集者の眼をもってする的確な俳句批評を行ったことだ。
こうした見識を持っていたからこそ立風書房からは名著が生まれた。『現代俳句全集(全6巻)』(一九八五年立風書房)『現代俳句集成』(一九八六年立風書房)は現代俳句を鳥瞰する名著としてその名声は揺るがない。前者は戦後派作家の主要作品をまとめており、附録としてそれぞれの作家に代表句の鑑賞を行わせたものが掲載され、龍太、澄雄や兜太らの戦後派作家論を書くに当たって現代にあっては欠かすことの出来ない基礎資料となっている。また後者は、『現代俳句全集』に後続する昭和一桁世代、更には戦後生まれ作家までを含めた選集となっている。
山本健吉が昭和以後の作家・名句集を鑑定した評論家とすれば、宗田氏は健吉が及ばなかった戦後生まれ作家までを視野に入れた評論家なのである。こうした鑑識眼は評論集でも発揮されており、『昭和の名句集を読む』『最後の一句』はいずれも寺山修司や攝津幸彦などの作家を取り上げることにより現代にも読むに堪え得る評論となっている。
飯田龍太と寺山修司
宗田氏の名前に関連して忘れられない作家に飯田龍太がいる。なぜなら、飯田龍太の晩年の句集はすべて立風書房から出されていたからである。
第六句集『山の木』(一九七五年)、第八句集『今昔』(一八八一年)、第九句集『山の影』(一九八五年)、第十句集『遅速』(一九九一年)(第七句集『涼夜』(一九七七年)は変則的な句集で五月書房から出ている)。これらの句集は龍太の指名で立風書房から出され、如何に宗田氏が龍太の信頼が厚かったかを物語っている。龍太の句業の半ばは、我々は宗田氏の手を通して知ることが出来るのである。実際、第十句集『遅速』の原稿を渡された時、宗田は龍太からこれが最後の句集だと言われたと述べている。「雲母」終刊の7か月前に龍太は宗田氏に終焉を伝えていたのである。
こうした厚意に答えて、龍太の没(二〇〇七年)後早々に宗田氏は大冊の現代詩手帖特集版『飯田龍太の時代――山廬永訣』(二〇〇七年思潮社)を監修している。生前色々な出版社が『龍太読本』のような企画を何度か行っていたが、没後最も完璧な特集はこの本をおいてはない。宗田氏はよく龍太に報いたと言うべきであろう。
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宗田氏の名前に関連して忘れられないもう一人の作家が寺山修司である。宗田氏に俳句への復帰を促した最大の恩人は寺山でその経緯については冒頭に述べた通りであるが、寺山の俳句の秘密を明らかにしたのが実は宗田氏であったのである。没後早々の『寺山修司俳句全集』(一九八六年新書館)の解説でジャンルを超越した天才の仕掛けを明らかにした。
(以下略)
※詳しくは俳句四季10月号をご覧下さい
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