2021年9月17日金曜日

【抜粋】 〈俳句四季9月号〉俳壇観測224・俳句の現代史とは何か――空白の五十年の始まり  筑紫磐井

 現在、俳句史というものが見えなくなってきているということをよく聞く。俳句史が見えないということは俳句の価値が定まらないということだ。例えば幕末や明治初期の月並俳句時代は歴史がないために存在したことさえ忘れ去られている。子規以前はさながら俳句が存在しなかったように見えるのだ。

 そこで、検証のために、俳壇で何が起きていたか、象徴的な出来事を上げてみる。近代の俳句が生まれたといってよい一八九六年(明治二九年)から二五年ごとに下って眺めてみるのだ。

①一八九六年(明治二九年)ホトトギス創刊(明治三〇年)の前年

(中略)

②一九二一年(大正一〇年)東大俳句会発足(誓子、秋櫻子、素十、青邨、風生)

(中略)

③一九四六年(昭和二一年)桑原武夫「第二芸術」

(中略)

④一九七一年(昭和四六年)俳人協会の公益法人化

 すでに、俳人協会は現代俳句協会から独立していたので大きな出来事でもないようなのだが、法人化とともに会員増強が大きく進み(このころを境に現俳の二倍規模となっている)、伝統派が優性となる。

【その後二十五年の出来事】伝統派(龍太、澄雄)の隆盛、女流俳句の噴出、総合誌の噴出、カルチャー俳句ブーム、伝統俳句協会の発足、そして「結社の時代」。充実はしてきたが、このあたりから戦国時代ではない、鎖国的な江戸文化の隆盛・元禄時代に入る。

⑤一九九六年(平成八年)

 ???困ったのはメルクマールとなる事件が何も見当たらないことだ。

【その後二十五年の出来事】結社誌の激減、総合誌の終刊。俳句甲子園ブームと多少彩りはあるがあまり景気がよくなく、「歴史的大事件」がなくなってきたことは歴然としている。

⑥二〇二一年(令和三年)現在

 この前の結社誌の激減、総合誌の終刊に続き、三協会の会員数も令和三年(現在)はすべて減少しているのが象徴的だ。

 句集が沢山出て、受賞者がたくさんいるじゃないかというかもしれないが、昭和20年代は超結社賞は現代俳句協会賞ただ一つであったが、「俳句年鑑2021」をみると賞の数は実に二二もある。しかしあの頃と比べて俳句の質が上がったとはとても言えない。

 俳句に歴史がなくなりつつあるのだ。あるいは、一九七一年にさかのぼってみて、「空白の五十年」がそろそろ始まっていたということができるだろうか。

    *    *

 それではこの空白の期間がどのように生まれたか調べてみよう。そもそもは決して悪い状況から始まったわけではない。

 当時の「俳句」を見てみると特徴的なことは、俳句の発表も多いが、三十句、十五句、八句と機会的に分類されていることだ。結社毎に三十句級作家、十五句級作家、八句級作家と分類されて、有力結社の内部が総合誌によってランクづけされているのだ。

 実は更にこれを越えて超三十句級(五十句を発表)作家が存在した。こうした分類を作り出したのは、実は角川ではなく当時の新興俳句出版社の牧羊社であった。まず昭和四四年戦後生まれ作家による「現代俳句十五人集」を刊行した。これはその後のシリーズ句集の草分けだったが、この隙間産業は大成功を収めた。こうした戦後作家の大売り出しは角川の「俳句」でもすぐ真似られ、「俳句」の年間特集に「特集・現代の作家」「特集・現代の風狂」等で、戦後派作家を大量の評論と特別作品で売り出したのだ。戦後派作家は牧羊社と角川書店によって大きな権威となった。その証拠に、牧羊社と「俳句」のシリーズに登場した戦後派作家は続々と読売文学賞を受賞する。だから、「俳句」の超三十句級作家、三十句級作家、十五句級作家、八句級作家のヒエラルキーを誰も信じて疑わなかった。この企画には角川源義が必ず入っていたから角川書店にとっても都合よかったと思う。派生的利益を受けたのは金子兜太で、伝統俳句の他に少数の前衛俳句をいれる際には必ず兜太が入った。兜太の不滅の名声はこうして確立した。これがアンシャンレジーム(旧体制)の確立である。これは前に述べたように決して悪いことではない。しかし問題は、これら主人公が消えた後、アンシャンレジームは新しい俳句を決して作り出してはくれないことである。空白の五十年はこうして始まる。

※詳しくは「俳句四季」9月号をお読み下さい。

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