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はつなつや肺は小さな森であり はづき (P43)
掲句はなつはづき『ぴったりの箱』(朔出版 2020年)の第2章「小さな森」の最初に置かれている。同時に、なつが2018年に第36回現代俳句新人賞(現・兜太現代俳句新人賞)を受賞した「からだ」の最初に置かれている句でもある。肺が小さな森であるという比喩は、はつなつという季語と合わさり、初夏の深呼吸の気持ち良さ、さらに言えば生の瑞々しさといったものを感じさせる。
掲句や受賞作の「からだ」というタイトルからも伺えるように、『ぴったりの箱』には身体感覚がモチーフとなっている句が多い。例えば身体(からだ)のあるパーツが書かれている句を興味の赴くままにいくつか引用したい。
右手から獣の匂い夏の闇 (P18)
冬木立胸に逃げ込む風ひとつ (P64)
春隣ぼんやり風を待つ頬杖 (P66)
ふきのとう同じところにつく寝癖 (P66)
天の川ひかがみ人知れず微熱 (P82)
雨水とは光を待っている睫毛 (P124)
一読して、句のなかの身体のパーツの幅広さとそこから広がる世界の大きさに驚く。
1句目は、多くの人にとって(恐らく作者にとっても)利き手である右手に獣の匂いがすると気付いたことから夏の闇に吸い込まれてゆく。右手という何気ないパーツを普段は意識しないように、自分が動物の一種であることも普段は意識しない。しかし、獣の匂いはそのことを否応なしに意識させる。獣の匂いが具体的にどのような匂いなのか書かれてはいないが、その語感は重たい。そしてその語感と夏の闇という季語が合わさり、一句全体に憂鬱や不安感が広がっている。
少し句が飛ぶが5句目は「ひかがみ人知れず微熱」という措辞にまず惹かれる。この措辞を私は「後ろ髪を引かれる」と同じような意味で、天の川を一緒に見上げている恋人から離れたくないという感情の比喩と捉えた。その他の解釈も可能だろうが、いずれにせよ恋に対して一途な人物の姿が想像出来る句だと思う。
この他にも、2句目からはさびしさが、3句目からはアンニュイな気分が、4句目からはユーモラスな雰囲気が、6句目からは光という言葉に象徴される未来へのしずかな高鳴りが、それぞれの身体のパーツから伝わってくる。
また直接的に身体という言葉が出てくる句には次のようなものがある。
身体から風が離れて秋の蝶 (P23)
水草生う身体に風をためる旅 (P37)
額あじさいもうすぐ海になる身体 (P49)
1句目からは作者の停滞感が伝わる。それはおだやかな春風に乗ることの叶わなくなった秋の蝶の姿に通じる。つまり「風が離れて」という措辞は、作者に向けられたものでもあり、秋の蝶に向けられたものでもあるのだ。
2句目は1句目と対照的に、そうした停滞感から抜け出そうとする作者の姿が思い浮かぶ。そしてやはりその姿は春の青々とした水草に通じる。
3句目の「海」は燦々と光の降り注ぐ海ではない。額あじさいのやや影を帯びた色合いが投影されたようなもの哀しい海である。その色合いからは作者の憂鬱な心象風景を感じる。
先程から私が句の感想を述べる際「作者」という語を多用していることに抵抗を覚える読者もいらっしゃるかも知れない。現代の俳句の世界では「作者と作品は分けて考える」という意見があることも事実だからだ。
しかし、結論から先に言えばこれらの句の身体はなつの身体でしかない。なつは、自分の身体感覚を作句のスタートとしてそこから離れない。例えば『ぴったりの箱』には次の句が収録されている。
薔薇百本棄てて抱かれたい身体 (P44)
薔薇という季語に、さらに言えばそれを棄てるという行為に象徴される情動は、俳句の表現としては直接的なものであり、敬遠されがちである。しかしあえてなつは「抱かれたい」とはっきり書いている。その姿に代わりはいないし、先に述べた作者と作品は分けて考えるという意見も掲句の前には意味をなさないと思う。
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また『ぴったりの箱』の句は、その身体のパーツの具体性とは対照的に、周囲の風景が漠然としている。例えば先に引用した「ふきのとう同じところにつく寝癖」に於いてふきのとうの生えているのは実際の風景ではなくなつの心象風景である。また句の内容もふきのとうの生態よりも、寝癖から連想される幼さや可愛らしさといったイメージと、ふきのとうのイメージの重なりが書かれている。このように『ぴったりの箱』の句は季語が実景ではなく心象風景に多く託されているという特徴がある。季語の象徴性が強いとも言えるだろう。
つまりなつは身体感覚を実景ではなく心象風景につなげ、それに季語を象徴的に合わせるという稀有な作句方法を取っているのだ。
そして、こうしたなつにとっての身体感覚の重要性は句に孤独感を与える。私は、これまで引用したどの句のなかにも、なつは一人で存在しているように思う。「天の川ひかがみ人知れず微熱」については恋人どうしだと解釈したが、両者の心がすれ違っていることを考えるとその孤独感は一人でいるときよりむしろ強いのかも知れない。
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そうした孤独をなつが強く感じ取っている身体のパーツが指先である。事実、『ぴったりの箱』で「指」の書かれている句は全部で9句あり、身体のパーツが書かれている句のなかで最も多い。ちなみに「背中」(7句)、「髪」(4句)がそれに続く。具体的にどのような「指」の句が収録されているのか引用する。
桜二分ふと紙で切る指の腹 (P38)
片恋や冬の金魚に指吸わせ (P60)
鍵探す指あちこちに触れ桜 (P70)
指先がふいに臆病ほおづき市 (P73)
くすり指鵙がことさら鳴く夜の (P83)
毛糸編む噓つく指はどの指か (P88)
ぬばたまの髪梳く指の冴え返る (P94)
花万朶小指で掻き乱す水面 (P125)
カーラジオ合わせる指先の薄暑 (P129)
最後の句からは薄暑という季語に託された夏への高鳴りを感じるが、その他の句からは一様に薄く水を敷いたようなさびしさを覚える。
いきなり話は私事となってしまうが、なつの主催する「朱夏句会」に手話をモチーフとした句を投句したことがある。その句の合評のときになつは開口一番「私、手話が大好きなんです」と言った。そして、テレビに手話通訳士が出ていると思わず釘付けになってしまうこと等を話していた。私にとってそれは、単なる句会での一場面として終わるはずだった。
しかし、『ぴったりの箱』に収録されたこれらの句を読んでその認識は変わった。恐らくなつは、手話という指先によって他者と通じ合うコミュニケーションの嬉しさと難しさにどこか自身の作句を重ねている。無論これは私の推測に過ぎない。しかし、これらの句の胸が痛むほどの繊細さを前に、推測と言えどどうしてもその思いを拭い切れない。
また、これらの句の指は必ずしも向かう先をはっきりと示していない。むしろときに立ち止まり、ときには宙に浮いたままでもある。しかし、そうした指の動きが却って世界との向き合い方のあるべき姿を教えてくれているように思う。それは、自身にとって知らない人物や物事に接したとき、偏見や先入観等ではなく実際の感覚、すなわち、身体感覚によってそれらと少しずつ向き合う姿である。
そして、その姿は句集のタイトルとして全体に通じている。
ぴったりの箱が見つかる麦の秋 (P104)
タイトルの由来となった掲句について、なつは「あとがき」で次のように述べている。
この句集でわたしがすっぽり入る「ぴったりの箱」を見つけた気がします。ただし「今のところ」と付け加えておきます。ぴったりは心地よくもあるし、窮屈でもあります。この矛盾する感覚がとても大事。ぴったりを知らないと不安定だし、窮屈に思えなければ伸びしろはありません。いずれこの箱も窮屈で息苦しくなる日が来るのでしょう。手足をもっと伸ばしたい、動かしたい、そういう衝動が生まれて来るはずです。その時はまた、新しい「ぴったりの箱」を見つけるべく奮闘するつもりです。
少し前から世間には「ありのまま」という言葉が氾濫している。まただいぶ前から「等身大」という言葉もやはり頻繁に耳にする。これらの言葉の内実に辿り着くことは容易いように思えて、非常に困難である。ひとには誰にも隠しておきたいこと、或いは必要以上に見せびらかしたいことがあるからだ。そして、そこに辿り着くまでにはいくつもの孤独を感じなければならないからだ。
『ぴったりの箱』はそうした「ありのまま」の自分、「等身大」の自分に辿り着くことの難しさを越えて出来上がった句集である。初夏の明るい陽の降り注ぐなか「ぴったりの箱」を抱きかかえるなつの指先は力強く、やさしい。(文中敬称略)
2020年11月13日金曜日
連載【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】5 指先から 木村リュウジ
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