麒麟さんの句集をどう切り取るか。明るさと暗さ、俗と雅…。多くの句集がそうであるようにこの『鴨』も多様に語ることができる句集であったと振り返る。
僕が興味を持った句の中で描かれる人物(麒麟さんだろう)は「流れ」に乗れない。
ささやかな雪合戦がすぐ後ろ
友達が滑つて行きぬスキー場
踊子の妻が流れて行きにけり
『鴨』のベースになったとも言える北斗賞受賞作「思ひ出帳」を鑑賞した際、僕はこうした句を「ポジティブな諦観」を表現したものとして解釈した(※1)。出来事の渦中にいないことを「画」にして切り取り、ある種の開き直りを見せることで句を作る技法として捉えたのだ。つまり出来事や流れに「乗らない」という態度による句作である。
しかし『鴨』を読み進める中で、作中人物は流れに「乗らない」のではなく「乗れない」と捉えたほうがよいのではないかと思うようになった。『鴨』で描かれる人物は流れに乗らないという強気な選択を行う人物には思えない。むしろあまりにも弱々しい人物が描かれているように思えるのだ。
我を狩るつもりの大き蟷螂よ
本当は「雪合戦が羨ましい」「一緒にスキーを滑りたい」「踊りを踊りたい」…。ポジティブな諦観という技法によって描かれる人物は、その技法に反比例するように出来事や流れへの強烈な関心を持っているようにさえ見える。
雪の日や大きな傘を持たされて
こう解釈すればこの「雪の日や」の句も、傘を持たされる背景にある出来事への強烈な関心を読み取ることができる。
ところで、こうした作中人物に共感する人は多いのではないだろうか(僕はとても共感するのだが…)。目の前の出来事に関心を持っているものの、空気や流れを読みすぎてしまう。「一緒にやろうよ」と誘われれば幸い。最後は流れに乗れず孤独を感じてしまうのである。
禁酒して詰まらぬ人として端居
以上、句に潜む技法とそれによって反比例的に描かれる作中人物の感情を解釈してみた。書き終えてみると、『鴨』の持つポテンシャルを描ききれないことに悔しさを感じる。拙い文章ではあるが『鴨』の一面を描いたと信じて筆を止めたい。
最後に、麒麟さん、句集上梓おめでとうございます。引き続きよろしくお願いいたします。
※1中西亮太「喚起する俳人」
(https://sengohaiku.blogspot.jp/2017/05/kirin2.html)
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