2018年3月23日金曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい2 つくることの愉しみ 樫本由貴

   『御意』はまさしく座で育まれた句集だ。読むものを構えて待つような句はほとんどなく、読まれることを静かに待つおおらかさがある。

   早速句を見てゆく(句集内、使用してあるのは多く正字)。
   かろやかに詠まれる実感の喜び。

子の息を吸ふ窓ガラス冬満月
朝寝して鳥のことばが少しわかる
一日は案外長しつくづくし
うかうかとジャグジーにゐる春の暮


   家族との距離の近さ。一句目、「子の息を吸ふ」といわれれば、その甘い、子供独特の吐息が想起される。二句目、「朝寝」の贅沢さは言わずもがなだろう。「鳥」「ことば」「少し」「わかる」の表記、本当に「少しわかる」感じが伝わってきて、甘さがない。
気取らない句の成りも好ましい。三句目、「案外長しつくづくし」の音の楽しさ。四句目、「うかうかと」とあれば、自覚しながらもやめられない怠惰さを愉しんでいるのは明白だ。

   目に映るものはかろやかさだけではない。〈まだ熱き灰の上にも雪降れり〉の句のように、まなざしと表現は対象によってしっかりと切り替わる。

母に告ぐ櫻の芽吹きありしこと
目をつむるだけの参拝夏衣
頬杖をとくまでの黙風邪心地


   一句目、「芽吹きありしこと」の「ありし」、すでに見つけてあったそれを、母を連れ出し耳打ちする、その喜び。「告ぐ」という語がそれを支え、かつ、さくらそのものを見られない母が浮かび上がる。二句目、外から見ただけの句ではない。一通りの方法をとらない人のなかにある沈深を、作者はわかっている。三句目、これは繊細な実感だ。もう言うことは決まっているというのに、口を開くまでのだるさ、ためらいによって流れ出る憂いが「黙」にある。

   彼女の句は足と目で書かれているのが如実だ。だから収められている句そのものには温度差がある。この落差が、句を統べる。このようにまとまったことこそが、自然と彼女の座と、足と目への真摯さをうかがわせる。

   黄土眠兎がこの句集に込めたのはあとがきにあるとおり「読んでいただいて面白いものにしたいという思い」だ。これは師への思いや句友への思いに枝分かれしてこの句集を成している。そこに大仰な心構えも、何かへの挑戦の意志も心情も述べられてはおらず、ゆえに記念碑的な意味で編まれたとだけ、この上梓を捉える向きもあるだろう。一方でこの句集の制作の過程を知り、実物を手にして私が感じたのは、本を作る過程そのものの楽しみだ。これはとんでもなく尊いことだと思う。俳句を詠む、書くことには作家それぞれ貫く芯があり、そのあかしとして差し出される句集というものは、負うものが大きすぎて、私は時に苦しささえ感じることがある。しかしこの句集が前面に出すのは、作ることの楽しさだ。この句集の制作過程はFacebookで時折報告され、あと少しで出来となるころには「字が植えてあるだけでいい」と彼女は零されていた。投げやりのようなこの言葉も、一冊を作るために奔走したゆえに漏れる一息だと思うと感慨深い。こういうことが伝わる本というのは珍しいと思う。
   このような“裏側”を知っているうえで句集を語るのは評論にそぐわないかもしれないが、本を作る純粋な楽しみが句集を編む中にあることを、最後に記しておきたい。


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