2017年7月21日金曜日
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む7】西村麒麟「思ひ出帳」を読む 宮本佳世乃
麒麟さんと会うのはだいたい酒席だ。そこで見る彼は、どこか飄々としていながら、正直そうな印象だ。裏表がなさそうというか、計算がうまくなさそうといった感じ。
この150句を読んだとき、だいたいが、昼寝をしているか、飲んでいるか、食べているか、ぼうっとしているか、のどれかに当てはまることに気づいた。平和な、長閑な世界に「ある」句だ。
たとえば、
鱧食うて昼寝の床に戻るのみ
朝寝から覚めて畳の大広間
ゆく秋や畳の上に昼寝して
少し寝る夏座布団を腹に当て
腸捻転元に戻してから昼寝
鱧を食べたがその後は眠るのみ。眠るのは、地平と続いている疊で、広がりがある。
甚平とかゆったりしているものを着ているに違いない。腸捻転は痛いんだけれども、すぐに元どおり(ちょっと嘘)。といった具合。なんなんだ、この余裕は。
でも、眠っているわけではない。
なにかあったらさっと起きられるように、ちょっとだけ横になる。
きっと、ちょっとだけ寝るのは、飲んでいるからだろう。
朝鮮の白き山河や冷し酒
秋の昼石が山河に見えるまで
火男をやり終へて飲む秋の酒
呉れるなら猫の写真と冷の酒
金沢の見るべきは見て燗熱し
ビールとかワインではなく、酒である。しかもどの酒もおいしそうだ。
なぜ、ちょっとだけ横になったり、酒を飲むのがよさそうなのか。
それは、「ちょっとよさげな日常を切り取った一コマ」に見えるからだと思う。日常的な言葉を使いながら、生活に関係することを描きながら、じつは、その「日常的」なものは普段、もっというと一年のうちのほとんどの「日常」ではないのではないか。
出かけたとき、旅をしているとき、帰省しているとき、休日、など、自分がリラックスしているときの風景は、ある意味格別で、ひとつひとつが「(良い)思い出」として記憶される。この150句のタイトル「思ひ出帳」にもあらわれているとおり、これらの作品は、スケッチの連続、なのかもしれない。
集中には、このような句もある。
踊子の妻が流れて行きにけり
何をぬけぬけと、と思うけれども、ここに書かれていることは、けっこう恐ろしい。どこを流れているかは書かれていないけれど、自分は流れないし、助けないのだから。
友達が滑つて行きぬスキー場
これも、自分はゲレンデにいなさそうだ。
喘息の我を見ている竹夫人
苦しいけれど、自分以外誰もいない。そして我を見ているのは、俯瞰したところにいる我。
文鳥に覗かれてゐる花疲れ
文鳥には、疲れているのが分かる。むしろ、覗かれなければ、分からない。
蟋蟀の影より黒くゐたりけり
黒くゐるのは。
これらは、「ちょっとよさげな日常」ではない。少し冷めた眼で世の中を見ている。「ちょっとよさげな日常」は、普段は手が届きそうなところにありながら、もう一歩のところで届かない。
俳句を書くときに、平和な、長閑な世界に「ある」ことを望みながら、一方で、現実を踏みしめている句がある。そんなところが、正直さにつながっていくのだと思う。
麒麟さんの句の真骨頂は、飄々とした明るさ、そして愛らしさだろう。
このような句を見るたびに、昼酒を飲み、昼寝をしたくなるのだから、かなわない。
白鳥の看板があり白鳥来
穭田の千葉が広々ありにけり
夕立が来さうで来たり走るなり
烏の巣けふは烏がゐたりけり
秋の金魚秋の目高とゐたりけり
虚子とその仲間のやうに梅探る
(編集者より。本BLOGの読者の中で、西村麒麟論を書いてみたいという方は、西村麒麟あてご連絡を頂きたい。未公開の150句をお送りするので読んだうえ評論を送っていただければありがたい。)宛先:kirin.nishimura.819★gmail.com(★を@に打ち換えてください)
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