恩田侑布子句集『夢洗ひ』が、平成28年度(第67回)芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。お祝い申し上げたい。恩田の『夢洗ひ』については、少し前であるが「俳句四季」2月号で齋藤慎爾・大井恒行・小林貴子と座談会を行っているので、例のようにその抜粋を紹介する。
筑紫磐井
筑紫 ・・・恩田さんは昭和三十一年生まれの六十歳。キャリアの長い方で、「酔眼朦朧湯煙句会」、連句の会「木の会」に終会まで所属、と略歴にありますね。現在は「豈」同人で「樸」を創刊、代表となっています。評論集『余白の祭』で第二十三回Bunkamuraドウマゴ文学賞を受賞されました。受賞の一環としてフランスへ行って日本文化についての講演もされたそうです。
個性的な俳人であることは間違いなく、句集にもそれが表れていると思います。
今までの句集はぎらぎらした華やかな句が多い印象でしたが、今回の句集は比較的地味な句も混じっていて、光をあまり出さないような雰囲気がとてもいいなと思いました。日常の心象を詠んだ句も多くありました。
恩田さんも六十歳、そろそろ加齢の年を迎えて、軟着陸する先を色々考えているんじやないかなと思いました。
そういうちょっとバイアスのかかった目で見たせいもありますが、「百態の闇をまとひて踊るなり」は上手いなと思いました。「葛湯吹くいづこ向きても神のをり」「隣合ふとは薫風の中のこと」。伝統俳句ですね。
「もう見分けつかぬや他人の流燈と」。時代劇の一場面のような。くだけた言い方の句で「吊し柿こんな終りもあるかしら」。池田澄子調ですね。
さばけた感じの句で「ずんぐりもむつくりも佳し福寿草」「近寄つて人ちがひなり花の雨」「瞑りても渦なすものを薔薇とよぶ」。
この辺りは伝統と前衛の中間を行っているような感じがしました。」
* *
しかし私の発言には、参加者から大分異論があったようである。恩田句集に見つけた伝統俳句っぽい句は否定的意見が多かった。
小林もこの句集は好きだが、第2句集『振り返る馬』が好きでとんがった感じでいつまでもいてほしい、有季定型に軟着陸して年相応の俳句をというのではなくて、以前のままの俳句を貫き通してほしい、と述べている。
また大井と私もかなり対立した。
大井 僕とは大分選句が違いますね。僕は伝統俳句っぽい句は採れなかった。
筑紫 結局私は、前衛俳句は最後に伝統俳句になだれ込んでもいいのではないかなと思っているんですよね。究極の伝統俳句を得るためには前衛俳句の道筋を辿っていくのではないかと。結構そういう人は多いですよね。赤尾兜子とか。
大井 多いと言うか究極の目標はそこですから。見事なる有季定型の句をつくるというのが全ての俳人の目標(笑)。前衛俳人だって目指すのはそこですよ。
筑紫 その意味で言えば、それが段々射程に入ってきている句集なのではないかと思います。だから前の句集が良かったと評価する人もいますけれども、私はむしろこれが恩田さんの本来の俳句ではないかという気がするんです。あえてやっているのではなくて、にじみ出てきた俳句ではないかと思います。
年を取ったら年相応の句を詠みたいという気持は我々にもありますよね。その意味では自分自身も変わってきているのは分かるし、恩田さんが変わる必然性もわかる気がします。
従って、私の取り上げた「近寄つて人ちがひなり花の雨」は、あまり面白くない(小林)、俳人協会系の人たちってそういう句を作り過ぎじゃないですか、彼女じゃなくても他の誰かが作れる句かもしれない(大井)と述べている。
「百態の闇をまとひて踊るなり」も、類想感があるような気がする。「闇」と「踊り」の取り合わせは多くの人が作っているし、あえて作る必要はない(大井)と厳しい。
齋藤慎爾も「核の傘いくつひろげて天の川」の句は一片のスローガンにも劣る、と厳しい。これに代えて、参加者の取り上げた句を眺めてみる。
【小林貴子】
片かげを滅紫(けしむらさき)に吉野川
あはゆきや塔の基壇の彩漆(たみうるし)
天網は鵲(かささぎ)の巣に丸めあり
落石のみな途中なり秋の富士
【大井恒行】
くろかみのうねりをひろふかるたかな
片かげを滅紫に吉野川
心臓を一箇持ちより夏の山
この亀裂白息をもて飛べと云ふ
柱なき原子炉建国記念の日
三つ編みの髪の根つよし原爆忌
核の傘いくつひろげて天の川
落石のみな途中なり秋の富士
一方、推薦者の齋藤は「ドウマゴ文学賞を俳人が受賞する事は今後もないと思うので、恩田さんには頑張って欲しい」と結んでいる。
私自身の結論は、座談会の中で述べたように「期待されすぎて、あまり高いところに上がっちゃっていると辛いかなという気もしなくはない」という感じなのだが、恩田が、齋藤慎爾の感想通り、頑張って芸術選奨を受賞したのは慶賀に耐えない。
たぶん、俳壇で恩田の受賞がいろいろ議論を呼ぶことは間違いないと思う。
できれば前衛と伝統の対立などより深まった議論の行われることが期待される。例えば、「百態の闇をまとひて踊るなり」は、あまり言及されなかったが、闇に百態を見るところに興味を感じたのだが、こうした全体と部分の関係は、伝統と前衛という立場の差より、読者の個別の視点の差であるはずだ。もとより、俳句は類想を免れない、類想の上に名作が出来上がるとすればその差をどこまで許容するのか、従来そうした方向からはあまり議論されてこなかった問題であるように思う。
※詳しくは「俳句四季」2月号をお読み下さい。
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