五七や七五を日本人の生理的リズムだとする幻想はみんなで嵌る落とし穴としてあります。歌人たちも、高校での教育の現場も、短歌を考えたりおしえたりするうえで、五音や七音が日本語の詩にとって自然だ、生理的リズムだという考えを出発点とします。けれども、……ほんとうにそう断定してことを進めてよいか、五音や七音が日本語の詩によって生理的だという「リズム」論には、決定的な証拠が何もありません。この思い込みをうたがうことから開始しなければ、さきは望めない、と思います。七と言い、五と言い、すべては文化的、歴史的所産ではありませんか。詩的な携帯のために内在的に選びとられる文化的成立なのだというに尽きます。 (藤井貞和『構造主義のかなたへ-『源氏物語』追跡』笠間書院、2016年)
ちょっと今日は定型と指を折ること(数字)に関して考えてみたいと思うんです。
『川柳杜人』(253号、2017年3月)に飯島章友さんが「川柳と遵法」という定型とルールをめぐる論考を書かれていました。
飯島さんは任意で柳誌一冊を分析・集計し、その柳誌の句のなんと4割が「おおよそ五・七・五でないフォルム」ということを導きだしました。ただそれは飯島さんの「体感」としては「ごくごく一般的な割合」だとも述べています。
それには飯島さんなりの理由があって、たとえば五八五という中八になったとしても、たとえ2音の音であっても1音として素早く読んでしまう場合も多々あるからだと言います。たとえばわたしたちは「しんかんせん」の「せん」をわざわざ「せ・ん」とはっきり発音はしません。「しんかんせ(ん)」と読む場合もあるからです。
そして飯島さんは小池光さんの「短歌にあっては、4+3≠3+4なのである。数学でいう共約役関係は成り立たない」という言葉を引いて、「マツモト/キヨシ」と「キヨシ/マツモト」の音のリズムは同じではないということを紹介しています。たしかに口に出せばわかりますが、数字はおなじでもリズム感は違いますよね。となると、定型って指を折っていてはだめかもしれないわけです。
ここで分かったことは、変格や準格は定型のバリエーションとして見なされる、ということ。たとえ正格でなくても定型なのです。もはや、最近五・七・五定型が乱れている、などとはいえなくなりました。
(飯島章友「川柳と遵法」『川柳杜人』253号、2017年3月)
昔、ある鼎談で、わたしの記憶がたしかならば、斉藤斎藤さんが、短歌は指を折ってつくるものではないんじゃないか、と言われていたことがあって、それがずっと忘れられないんですね。どういうことなんだろう、とずっと考えていて。ふつうは短歌をつくりはじめるとき、指を折って、57577をちゃんと数えてつくりはじめますよね。でも、そうでもないらしい。その答えが飯島さんと小池さんの上の説明にあるような気がするんですね。数はおなじでも音律は違う場合がある。
片山由美子さんが「字余り」いついてこんなふうに書かれています。
字余りはどこまで許されるのでしょうか。ひとつの目安になるのが、四分の四拍子三小節ということです。一拍に二音を当てはめると一小節は八音、全体では二十四音になります。
(片山由美子『俳句のルール』笠間書院、2017年)
これはおもしろいですよね。俳句って575の17音に見えるんだけど、実は、口に出して唱えているときは、888の24音になっているということなんです。なんでかというと、定型のリズムは休止がつくるものであり、俳句を口にだして読むときに休みの音もそこにちゃんと入れて読んでいるからです。
だから、もし字余りの場合でも、24音以内であれば、
字余りは、文字通り余ってはみ出すという印象を与えますが、実際には圧縮されるのです。長いフレーズは速く言う、そのことに尽きます。
(片山由美子、同上)
となると、指を折ってつくるというよりは、どういう速度やリズムをつくりたいかが定型詩をつくるときに必要なんじゃないかということがだんだんわかってきます。
たとえば定型内部の独特なゆれのリズムを言わば不安な生命感覚のようにうみだしている歌人に岡野大嗣さんがいます。
ひやごはんをおちゃわんにぼそっとよそうようにわたしをふとんによそう 岡野大嗣
(「わたしだけのうるう」『大阪短歌チョップ2 メモリアルブック』2017年2月)
ひやごはんを/おちゃわんにぼそ/っとよそう/ようにわたしを/ふとんによそう
わたしなりに区切ってみたんですが、一見定型にあてはまらなそうにみえて、67577とほぼ定型どおりになっています。だから実は定型からそんなにぶれていないんですが、6音の不安な出だしから「ぼそ/っと」で定型がまたがっていくあたりで不安なリズムが増幅される仕掛けになっています。定型のゆれていく使用=仕様によって、「ひやごはん」的生の不安でしかし凝り固まったありかたが醸成されています。これは定型の内部のゆれのリズムとして考えることができるんじゃないかと思うんですね。
また飯田有子さんのこんな短歌があります。
たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔 飯田有子
たすけてえだげね/えさんたすけてに/しかわもうふのた/ぐたすけてよなか/になでまわすかお
と88888になっています。88888なので、さきほど片山さんが書かれていたように非常に早口で息せき切って読まなければなりません。しかしそのせいで、性急なヘルプな感じがとても強くでてきます。一首をすべて読むころには酸素も薄くなり、ほんとうにじぶんが助けてというかんじになる。ひっぱくします。
もしかしたら飯田さんのこの歌は、意味内容で解釈する歌ではなく、純形式的な歌ではないかとおもったんです。意味ではなくて、形式の歌だと。形式が「たすけて」と言っている歌なんだと。リズムが「たすけて」といっている。
こんなふうに定型というのは実は指を折っていてもアクセスすることのできない〈なにか〉の場合もあります。そしてそうした定型自身が〈なにか〉としてつねにうごめいているからこそ、その奥にふおんな〈なにか〉が生まれるのかもしれません。
たとえばそれは、青木亮人さんが描いたような、到達できないなまなましい〈なにか〉です。ゆびの、もっと、おくの。おく、の。
作者が考えた唯一の正解はどちらかでなく、どちらも混じりあいながら生々しく読者に迫るのが「俳句」といえます。単に五七五や季語のある句でなく、何か奇妙なものの発見や一種の驚き、違和感やずれのような実感がやけに漂う作品であり、それまで当然と信じ、疑問に感じなかったことが何かの体験を契機に「…?」と感じ、常識や先入観が不安定に陥った瞬間の生々しさが読者に伝わってくる、その《何か》が宿っていれば「俳句」であり、自由律や無季句でもそういう手触りがあれば「俳句」である、とひとまずいえるでしょう。
(青木亮人『俳句のルール』同上)
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