2016年3月4日金曜日

【短詩時評 14時】フローする時間、流れない俳句 喪字男×柳本々々-『しばかぶれ』第一集の佐藤文香/喪字男作品を読む-



【めぐりあう時間/俳句たち】

柳本々々(以下、Y) どうもこんばんは、もともとです。きょうは俳句の方から喪字男さんをゲストにお招きして去年の年末に発行された俳誌『しばかぶれ』を軸に喪字男さんと俳句と非・俳句の〈あわい〉のような場所についてお話できたらなと思っています。

喪字男(以下、M) こんばんは。僕がTwitterを引退したことで、みなさんがましゃロスみたいなもじょロスになって仕事を休んだりしてないか心配でなりません(笑)。僕は今、養育費を稼ぐのにちょっと頑張っています。生きていますのでどうかご安心を。

 はい(笑)。喪字男さんは今回の『しばかぶれ』のプロフィール欄にも「最近、ツイッターから足を洗いました」と書かれていましたね。

で、この『しばかぶれ』(第一集・2015年11月)という俳誌なんですが、この号は中山奈々さんの特集号で中山奈々さんという表現者が多面的にわかる面白い誌面構成になっていて奈々さんの表現を立体的に知るためにはとても参考になるというか必読の俳誌なんですが(今月第2週の「フシギな短詩7[中山奈々]」『およそ日刊「俳句新空間」』にて中山奈々さんの俳句と〈傷〉をめぐって取り上げさせていただく予定です)、それだけでなくこの『しばかぶれ』の中の俳句作品の連作の構成も少し変わっているんですね。たとえば佐藤文香さんの「ヒビのブブン」という俳句作品はすべて横書きで掲載されています。これは「●SNS編」という小タイトルもあってネット用語が埋め込まれている句もあるのでむしろ横書きの方がナチュラルな感じもするんですが、すこし引用してみましょう。

  何んとらーめん(送り仮名それでうp)  佐藤文香

  # 秋(ハッシュタグアキ)へ何グラムか、写真  〃

  銀やんま夜を引用RT         〃


たとえばこれを縦書きにするとハッシュタグなんかもまったくふだん見慣れない感じになるので横書きはナチュラルといえばナチュラルですが、考えてみるとふだんわたしたちが短詩にまず出会うのって〈横書き〉から入っているのかなという感じもします(今この記事も〈横書き〉なわけです)。

 確かにTwitterっぽい感じですよね。2ちゃんねるが便所の落書きならTwitterは水洗トイレでそのまま流れていくみたいな印象があるのですが、それを作品のモチーフにしたというのは意味深ですよね。頭がこんがらがりそうです。

 たしかにTwitterのタイムラインやLINEのトーク画面みたいに横書きだとフローというか流れていく感じがありますね。ひとつひとつの言葉が残る、というよりは、流れていくなかで全体的なまとまりとして〈感触〉をつかんでいく、流れていく言葉の群れみたいなものが流れながら風景みたいになっていく。

 横書きの俳句というのは不思議な感じですよね。「俳句は刺さる」というのも縦書きならではのことのように思います。

 「刺さる」っておもしろい表現ですね。そうか、縦書きだと〈刺さる〉かんじが出てくるんですね。

M じゃあ、横書きにすれば刺さらずにどうなるのでしょう? 仮に握ったらどうなるかを考えると縦なら刺さりますが、横なら握り込められる? いや、すり抜ける?

 そうですよね、横にするか縦にするかでたしかにベクトルの感じが変わってきますよね。下にどすんと刺さっていくのと、横に川のように流れていく状態っておなじ言葉の連なりでも意味の生まれ方が変わってくる感じがします。

  横が川なら縦は滝、みたいな感じでしょうか?

 ああ、なるほど。滝は落ちたらもとには戻らないけれど、川なら逆流もありうるかもしれない。そう考えるとおもしろいですね。

 流れという意味では、横書きになって面白いのは少し長い短歌なのかもしれませんね。急降下の感じがなくてもっと、ドテッとした感じといいますか。

 たしかに言葉の質量や重量が変わってくるかもしれない。Twitterの140字がもし縦書きだったらもっとどかっと感じがあったかもしれないし。たしかに17音のたて/よこと31音のたて/よこでも質感が変わってきますよね。この佐藤さんの連作も17音という〈短さ〉のせいか、それとも季語が入っているせいか、ネット用語が埋め込まれていて横書きでももネットの言葉という感じがあんまりしないんですね。むしろネットと俳句のあわいの緊張感のなかに置かれた言葉のようにも思う。

 ネットと俳句のあわい、よくわかります。そういえば、佐々木貴子さんが最初の師匠に俳句を送った時「さあ、深呼吸して肩の力を抜き、縦書きのノートをあなたは横書きに書いてみましょう。今回は無修正で、全部にまるをあげる」と言われたそうです。僕はこのエピソードがなんだかとても好きで、よく思い出します。

 そのエピソードをうかがって今思ったのは、たぶん縦書きで書いていたものを横書きにすることで、或いは、横書きで書いていたものを縦書きにすることで、それまでみえなかった〈縦書きの無意識〉や〈横書きの無意識〉みたいなものが見えてくるのかなとも思います。気づかなかったことにふっと気づく、というか。たとえば太るとやせていた頃の自分にきがついたり、やせると太っていた頃の自分の感覚に気がついたりとか。この文香さんの連作も〈縦書き〉ですとんと刺したり落としたりできないような〈引っかかり〉を感じるんです。たとえば、


  君は鮭♂つぶやきを遡る  佐藤文香


とか、これってたぶん語り手はツイッターのログをスクロールして上から下へ上から下へどんどんさかのぼっていると思うんですが、いつまでもスクロールしていく感じ、落とせないあのツイッターの過去ログをさかのぼっていってもどこにも行き着かないような感じがあるようにおもう。

M Twitterの過去ログというお話を聞いて思ったのですが、佐藤文香さんの今回の横書きの俳句は一句一句が単位みたいですよね。ワンブロックというか、ワンツイートというか。凝縮された新しい漢字みたいな。 あと、無季の句も多いですよね。
たとえば、


  元彼やLINEにゐなくなつても好き  佐藤文香


この句とかです。無季の句についてそんなに深く考えたことはないんですが、恋愛的な「好き」という感情を表す言葉が効いてるんでしょうか。む、難しい。


  台風で面白いのは君である  佐藤文香

  あいたいしたいやきにくちかくおねがい  〃


 あ、そうですね。喪字男さんがおっしゃるように、一句でもあり、ワンツイートでもあるという〈単位のあわい〉のようなところにもあるのかなって思います。この作品では「好き」や「君」や「あいたい」っていうすごく率直な言葉が出てくるのも特徴的だと思うんですが、俳句では使うのが難しい言葉だということでしょうか。

 僕に限って言えば「好き」「あいたい」は難しいです。歌詞っぽくなっちゃう気がして…。そっからどう外れるかばっかり考えそうで(笑)

Y なるほど。ツイートだとむしろ「好き」とか「あいたい」って合いそうな言葉だけれど、俳句だとむずかしい。でも、ツイートと俳句のあわいにあるので、「好き」とか「あいたい」が微妙な質感をもってこの連作にはあるように思うんですよね。だから「好き」とか「あいたい」って率直なんだけれど、この構造のなかではその率直さが奪われて意味のあわいのようなところにあるのかもしれませんね。
俳句でおもしろいなと思うのが、季語によって流れる時間が固定されるところだと思うんですね。たとえば、佐藤さんの作品も全体的に流れる言葉のなかで流れていかないものに焦点があてられているのかなとも思う。たとえばさきほど喪字男さんがあげてくださった「元彼やLINEにゐなくなつても好き」なんかもLINEという流れていくフローな言葉のメディアのなかで「好き」という固着点によってずっと〈流れない〉ものがあるというか。さっきの「台風」の句もそうですね。台風は通過していくものだけれど、「君である」といったしゅんかん、とどまってしまう。

 あ、台風は季語でした(笑)。

Y 台風は秋の季語ですよね。季語が埋め込まれていることで、ちゃんと《これは俳句なんだよ》ってことも喚起してくる連作ですよね。だから〈あわい〉みたいなものを考えさせられる。

【季語がなかったらどうしていいかわからない】
 で、喪字男さんの「昼寝用」という俳句作品も今回の『しばかぶれ』には載っているんですが、これもひとつの流れる時間と流れない時間をめぐる連作にもなっているのかなあとも思ったんです。この作品も少し変わった連作の構成になっていて、たとえば頭に「片目が義眼の叔父さんは、映画館で半額にしろとゴネたことがあるんで尊敬してる。」や「一日ひとこすりで一年くらいかけてオナニーしてみたい。」、「昔のドリカムの写真を見たら未来予想図から完全にはぐれた人がいた。」という〈時間〉をめぐる詞書が置いてあるわけです。私はこれは〈叔父さんの思い出〉を〈今〉の時間のなかに置き直すことや「オナニー」を「一年」という春夏秋冬の時間のなかに置き直すことを示唆しているんじゃないかとも思うわけです。そう考えると連作のなかの


  あの日たしかに虫籠に入れたのに  喪字男

  発達の遅れし子等へ小鳥来る  〃

  アッコにはまかせられない晩夏かな  〃


など〈時間のズレ〉のようなものが作品から浮かび上がってくるのかなとも思いました。ある時間が流れているなかで、季語によって流れない時間がでてくるというか。

 ふむむむ。そんなに難しいことを考えていたのかどうか、あんまり覚えてはないんですが、時間をズラしたり、引き伸ばしたりっていうのはお笑いの要素でもあるんで、や、この詞書に笑ってもらえたかどうかは別として、なんですけれど。でも俳句を作るときはお笑いの要素を少し横に置くんです。というのも、俳句は笑いをとるには向いてない気がするというだけなんですけど。

 あー、そうなんですか。あ、でもたしかに今そう言われてみると、間に埋め込まれている「秋の夜の喪字男人生相談室」とかってお笑いの質感がありますよね。お笑いってよく〈間〉が大事だというけれど、そういう意味ではお笑いも〈時間〉との関わりが深い言語表現なのかもしれませんね。
さっきの佐藤さんの連作もそうだし、喪字男さんの連作もそうだと思うんですが、流れる時間のなかの流れないものって〈喪失〉とも関係しているように思うんです。


  流れゆく元親友の挙式かな  佐藤文香


  昼寝用安定剤をわけておく  喪字男


「元親友」というのは〈親友〉を喪失したときの呼称です。「昼寝用」というのも〈昼寝〉を失ったひとのための呼称です。ただ〈喪失〉ってたぶん失えないものなんですよね。一度捨てたものはひとは二度と捨てることができないというか。失ってたら「元親友」や「昼寝用」とわざわわざ言い換える必要がない。〈喪失〉したものはどうしても別のかたちでよみがえってくる。流しても流しても失っても失ってもそれはよみがえってくる。

 喪失、は確かにそうですね。もともとそう言った言葉を好むタイプですし、今回は特に意識にあったように思います。言われて驚きました。自分ではわからないのですが、「中年男の哀愁」とか言われることがあるのはその辺りに起因しそうですね!

 「中年男」っていう「中年」っていうのも〈時間のなかに埋め込まれた人間〉ですよね。ちょうど時間の真ん〈中〉にいる人間というか。
失っても回帰してくるものってちょっと〈季語〉にも似てるのかなって思うんです。たとえ春が終わっても、またいずれ春はべつのかたちをとっておなじふうなふうあいでやってくるわけですよね。なんどもなんども季語を使っては、でもまたべつのかたちでまたおなじ季語がやってくる。そういう季語とむきあってる俳句って独特というか他の短詩にはない質感があるように思います。いつも流れるものと流れないもののあわいにいつづけるというか、そういう意識をもってしまうというか。

 季語は確かに面白いですよね。僕はなんじゃかんじゃ言いながら俳句を作っていますので、季語はついつい意識してしまいます。といっても季語についてそんなに勉強したわけでもないんで、適当なことを言うと怒られそうですが……。僕の感覚では、季語はとても便利なんです。季語をおちょくるという行為も季語あるからこそできるもので、季語がなかったらどうしていいのかわからない。ボキャブラリーがありません(笑)。なので、無季俳句や川柳って難しいなと思います。僕にとって季語は、みんなで甘えていい存在なのかもしれません。甘えさせていただくというか。これって誰かが言ってそうですね。

 「季語がなかったらどうしていいのかわからない」っていう喪字男さんの言葉ってとてもおもしろいと思います。ふつうは俳句をつくらない人間にしてみれば、「季語があるのでどうしていいのかわからない」の方が大きいと思うんですね。そこに俳句をつくるときのまずファーストステップの難しさがあるように思うんですが、でもだんだんと「季語がなかったらどうしていいのかわからない」の方にふっと移行するしゅんかんがある。それって俳句を表現としてとらえるときすごく興味深い問題なのかなって思いました。
「季語は、みんなで甘えていい存在」と喪字男さんがおっしゃったのも季語を考えるうえでとても興味深いんだけれど、その「みんな」という意識と、でも季語を使ったときにどうしても出てきてしまう「みんなでないわたし」みたいな部分がでてくるのが俳句なのかなっていま喪字男さんの言葉をきいて思いました。それこそ一年を循環する季語のなかで「ヒビのブブン」としての〈わたし〉が出てくるというか。喪字男さんのタイトルにならうなら、「昼寝用安定剤」のように季語は「安定剤」としての「みんなで甘えていい存在」としてあるんだけれど、でも「昼寝用」のようにその用途は個人個人でべつべつのものになっていく。

M そうですね。個人的な出来事が季語によってうっかり普遍性を帯びたりするのが俳句の面白い一面なのかもしれません。

【洗濯をするベイダー卿】

 そういえば今回の喪字男さんの連作で〈暴力性〉のようなものも感じました。短詩と暴力をめぐる親和性みたいなものって前から興味をもっているんですがたとえば


  色彩や汗をかかなくなる手術  喪字男

  鼠花火を入れしバケツをかぶりたる  〃

  秋風が婦長の腹にぶつかりぬ  〃

  長き夜の外から鍵のかかる部屋  〃


どれも密閉感というか閉塞感があって、しかもそれが外から強制的にもたらされてる感じもするんです。外傷的というか。「外から鍵のかかる部屋」っていうのは言ってみれば〈監禁〉だし(バケツや手術もある意味であけてとじたり、かぶせたりする〈監禁〉かもしれませんね)、「秋風が婦長の腹にぶつか」ることで秋風がなんだかバイオレンスなものになっている。こういう暴力と俳句をめぐっては喪字男さんはどのように思われていますか。もちろんここには直接的な暴力を感じさせる言葉はないけれど、それを予期するものがある。

M 暴力的な言葉も好きです。たぶん、俳句にあんまり使われてない感じがするんだと思います。直球が投げられないので変化球しか狙わない!的な発想で情けない限りなんですが……。でも今の言葉って暴力的ですよね。僕が子供の頃は「凄い!」ってやたら言ってたんですが、今の子供達は「エグい!」っていうんですよ。ものすごく気軽に。そういうのは面白いなって思うんで使いたくなるんですよね。よく今の人の言葉遣いを嘆く人がいるじゃないですか。でも、俳句自体は真逆な存在ですよね。古典っていうか。じゃあ、合わせたらどうなるんだろう? ってなります。

 その喪字男さんの〈取り入れ〉に関していうと、喪字男さんの句に、


  長き夜のダース・ベイダー卿の息  喪字男


という句がありますがこれって『スターウォーズ』のダースベイダーのことですよね。これ初めて見たとき私はダースベイダー好きだったのですごく面白いとお思ったんですが、なにが面白いかっていうとちゃんと〈俳句〉になっているんですよね。『スターウォーズ』って俳句化できるのかっていう驚きがありました。ダースベイダーの息の〈フーパー〉って音ってみんな気になってると思うんですがそれを季語の「長き夜」とかけあわせて「息」に趣がでている。ベイダー卿の「息」がひとつの風情のようになっていてこんなことも俳句でできるのかという。また「ダースベイダー」という呼び捨てじゃなく「ベイダー卿」という言い方もおもしろいですね。語り手とダースベイダーにはある〈関係〉がある。その関係性も生きていますね。

M 普段から正式名称って気になる方で、というのも、関西だと「ちゃんと言わんでええから!」みたいなツッコミが返ってくるんですよ。それに、ダース・ベイダー卿あるいはベイダー卿と一回口にしてみると、何回か言ってみたくなる感があるのですが、この感じをわかってもらえる人がリアルでは皆無なので、不安なまま投句しました。なんで言いたくなるんでしょうか? 優越感なのでしょうか……。

 優越感もひとつの関係性ですもんね。これも考えてみると、流れる時間のなかの流れないもの、つまり〈フーパー〉と流れるベイダー卿の息のなかでそれでも季語によってとどめおかれたものなのかなあと思います。

M あ、そうそう、僕は生活感が好きなんです。洗濯物が山積みなのに風鈴が吊るしてあるとかそういう感じ。人が生きてる感っていうか。気取ってない部分っていうか。そういうことなのかもしれません。

 なるほど。ここまで「フローする時間、流れない俳句」をめぐってお話してきましたが、最後に「洗濯物」という〈日々の生活のなかで洗濯として流れながらも・洗濯物としてとどめおかれる生活物〉が出てきたのが興味深いなと思いました。
それではここらへんで終わりにしましょう。ありがとうございました!


【喪字男さんの自選句五句】

春一番次は裁判所で会おう 

たまに揉む乳房も混じり花の宴 

対UFO秘密兵器として水母 

長き夜のダース・ベイダー卿の息 

病棟にマグロ解体ショーのデマ





  • 『しばかぶれ』

堀下翔、喪字男、佐藤文香、中山奈々、田中惣一郎、小鳥遊栄樹、青本瑞季、青本柚紀
俳句同人誌「里」所属メンバーのうち、40歳以下の若手が結集した作品集。中山奈々旧作100句、田中惣一郎による奈々論ほか、同人の新作を多数掲載。
  (「21回文学フリマ東京エントリー」より)


  • 喪字男(もじお) 
一九七四年大阪府生まれ。二〇一二年より屍派に導かれ作句開始。「エロティック・セブン vol.1」「彼方からの手紙 vol.9」に参加。「里」同人。(『しばかぶれ』同人プロフィールより)



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