山田(航)は自身のインターネットサイト「トナカイ語研究日誌」のなかで、膨大な歌人の作品を読み、評をのこしている。調べものをしようとして、歌人の名前を検索サイトに入れると、必ずといってよいくらいこのサイトが検索結果にあがってくるほどだ。この、だれに頼まれたわけでもない「千本ノック」のような行為自体、山田とその短歌のもつ特徴をよくあらわしている。それは、がむしゃらさ、にがさ、孤独、でもあきらめない、ロマンチックな側面、ださかろうとかっこわるかろうと有無をいわさない情熱、こつこつと築きあげていく力。
(梅崎実奈「山田航/無数の声の渦に紛れよ」『桜前線開架宣言・紀伊國屋書店新宿本店限定購入特典』2015年12月)
余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗うが如き手段たるを信じたればなり。余は心理的に文学は如何なる必要あって、この世に生れ、発達し、頽廃するかを極めんと誓へり。余は社会的に文学は如何なる必要あって、存在し、隆興し、衰滅するかを究めんと誓へり。
(夏目漱石『文学論』1907年)
現代における成熟とは他者回避を拒否して、自分とは異なる誰かに手を伸ばすことーー自分の所属する島宇宙から、他の島宇宙へ手を伸ばすことに他ならない。
(宇野常寛「時代を祝福/葬送するために」『ゼロ年代の想像力』ハヤカワ文庫、2011年)
島宇宙から島宇宙へと枢機卿 小池正博
(小池正博『転校生は蟻まみれ』編集工房ノア、2016年3月)
社会学者のピエール・ブルデューが提唱した概念に「文化資本」というものがあります。
ブルデューがそれによって指摘したのは、眼に見える財産(貨幣)という経済資本だけでなく、ひとは〈文化〉も資本としてもっている。知識や教養、学歴や趣味、価値観なんかもそのひとの資本なんだ、そういう文化資本によってそのひとをめぐる固有の〈場〉のありかたも変わってくるんだということだったと思うんです。そういうふだんは眼にみえない資本を「文化資本」と呼んだ(もちろん、眼にみえる形においても自宅の本棚の文学全集やリビングに流れるクラシック音楽なんかもひとつの「文化資本」となるでしょう)。
そういう文化資本をもってひとは文化のなかで言葉をつむぎながら自分の位置を移動していきます。〈場〉をめぐってブルデューはこんなふうに述べています。
私が〈場(シャン)〉と呼ぶのは、統計的社会学を行う人々が考えるような、たんなる人々の集合、個人の総体のことではないのです。ひとつの社会的構造、個人達に課される諸関係からなる一つの空間のことなのです。……〈場〉の概念を、私は物理学から借りて使っています。〈力の場〉と、そこに入ってくる分子、すなわち個人を、想像して見ることが出来ます。一人の作家に起こるであろうことを理解するということは、彼の上に働くであろう諸々の力を理解するということです。
(ピエール・ブルデュー、石田英敬訳「セミナー 文学場の生成と構造-ピエール・ブルデューを迎えて-」『文学』1994年1月)
ここにあるのはひとりの表現者をその〈内面〉からとらえるのではなく、ひとりの表現者がどのような文化資本を携えながら・どのような場で・どのような諸関係を結びつつ・どのような力学のもとで〈表現〉という力学的移動をしていくかという〈場〉をめぐる考察です。ブルデューにとって、文学や文化や社会とは「はじめに言葉ありき」ではなく、「はじめに場ありき」なのです(或いは「はじめに文化資本ありき」)。
先日、現代短歌のアンソロジーが上梓されました。山田航さんの『桜前線開架宣言 Born after 1970 現代短歌日本代表』(左右社、2015年12月)です。私はこのアンソロジーが画期的な理由のひとはつねに短歌や歌人がおかれる〈場〉への意識を研ぎ澄ましていることにあるんじゃないかと思うんです。たとえば山田さんはこんな「まえがき」から始めています。
ぼくは大きな勘違いを一つしていた。寺山修司から短歌に入ったぼくは、歌集というものをヤングアダルト、つまり若者向けの書籍だと思い込んでいたのだ。短歌が世間では高齢者の趣味だと思われていたなんてかけらも知らなかったし、実状をそれなりに知った今でも心のどこかで信じられない。どうせなら、ぼくと同じ勘違いを、これから短歌を読もうとする人みんなすればいいと思う。みんなですれば、もう勘違いじゃなくて事実だ。 ぼくは短歌のおかげで大人にならなくて済んだから、今はとても楽しいです。
(山田航「まえがき」『桜前線開架宣言 Born after 1970 現代短歌日本代表』左右社、2015年12月)
ここにあるのは〈短歌〉が「高齢者の趣味」としての高齢者の〈文化資本〉でしかなかったことの〈愕然〉であり、しかしそこから出発することによって、〈文化資本〉としての〈短歌〉をもういちど〈べつのかたち〉で〈アンソロジー〉として位置づけ直そうとする〈毅然〉ではないかとおもうのです。
実際、本書のなかにおいても山田さんはこんなふうに歌人をめぐる〈場〉を解説されています。たとえば野口あや子さんの解説を引用してみようと思います。
野口あや子という歌人の貴重な資質は、「地方都市のヤンキー層の女性」という文化的背景を抱えたまま、そういった層の「言葉にならない言葉」をすくい上げることに成功していることだろう。それは「東京のインテリ層の男性」という、社会的に特権を持っているポジションの者から見れば眉をひそめるようなものも少なくないかもしれない。しかし、ぺらぺらと流暢に話す強者の言葉など、文化は一切必要としていない。 (前掲)
ここで問われているのは、言語を発する〈場〉そのものです。ブルデューの研究によって多くの学問が自己反省的に学問自身のおかれている場の権力性を自己言及的/再帰的に問われたように(つまり、学問とは〈何か〉、ではなく、学問をしているおまえは〈誰〉か、が問われた)、山田さんが短歌をとおして問いかけているのは、短歌とは何かであると同時に、短歌を詠んでいる/読んでいるあなたとはいったいどこに・誰としている〈なにもの〉なのか、という〈場〉をめぐる問いです。もちろんそれはこのアンソロジーを読んでいる読み手も(そして今書いているこの〈わたし(柳本々々)〉も含めて)ただちに問いかけられるものなのです。だれも安全な領域にいることは許されない。すべての人間が〈前線〉にひっぱりだされ、みずからの言語的・文化的位置を問い直される。それがこの『桜前線開架宣言』なのです。
〈東京〉に住むということそのものも〈文化資本〉であるという〈東京的無意識〉も〈浮き彫り〉にさせながら、そこにありとあるフロンティアを拮抗させつつ、脱臼させること。たとえば雪舟えまさんの短歌のこんな解説をみてましょう。
「土地」というのが実は雪舟えまの短歌を読むうえでとても重要な要素である。土地と交感し、楽しみ、ときに一体化して睦み合う。しかし決してその土地に埋もれることはなく、故郷すらも旅人のようにしか歩けない。…… このような思想は、札幌という近代以降に生まれた年だからこそ育まれた、全く新しいタイプの土俗性だ。近年の雪舟は東京から北海道小樽市へと移住し、北海道を舞台とした小説にも挑戦を始めている。しかし内容はSF的だったりする。これは「北海道的想像力」としてむしろ自然なことであり、北海道に現代日本文学のフロンティアがあることを予感させてくれる。 (前掲)
「前線」をあちこちに〈陣地戦〉的にさがしだし、ありとある無数の「前線」を引くことによって、中央で特権化された「前線」を突き崩すこと。それもまた本書のひとつの特徴だとおもいます。「桜前線」とは〈固定〉せず〈移動〉する〈前線〉そのものなのですから。
「あとがき」を山田さんはこんなふうに締めくくっています。
ハイ・カルチャーとしての短歌に安穏としないで、何らかの権威に対しての「ノー」の突き付けがあること。現代日本文化のエッジとして力を発揮している歌人たちを、揃えてみたつもりです。 二十一世紀は短歌が勝ちます。この本で選んだ四十人がきっと、九八年のワールドカップ日本代表みたいになりますよ。 (前掲)
「ハイ・カルチャーとしての短歌」という固定化された〈文化資本〉としての〈短歌〉ではなく、〈文化〉の〈場〉のなかでさまざまな諸関係を結びつつ、〈文学場〉だけでなく、〈文化場〉のなかで文化の力学をそのつどそのつど即応的に切り崩していくこと。その意味で、〈場〉のゲームをめぐる〈サッカー(ワールドカップ)〉や「現代日本文化のエッジ」という「文化」という言葉で最終的にこのアンソロジーが結ばれていることはとても興味深いことだと思います。いわば、〈文化の場〉とはなにかを問うかたちでこのアンソロジーは終わっているからです(ちなみにタイトルの「前線」という言葉もつねに読み手に〈場〉を想起させるトポロジカル(位相的)な言葉です)。
ここで先日上梓された小池正博さんの第二句集『転校生は蟻まみれ』(編集工房ノア、2016年3月)をみてみたいとおもいます。小池さんは「あとがき」をこんなふうに書かれていました。
「川柳」とは何か、今もって分からないが、「私」を越えた大きな「川柳」の流れが少し実感できるようになった。けれども、それは「川柳形式の恩寵」ではない。「川柳」は何も支えてはくれないからだ。
(小池正博「あとがき」『転校生は蟻まみれ』編集工房ノア、2016年3月)
私はこの「「川柳」は何も支えてはくれないからだ」という言葉がとても印象的だったんですが、この言葉は実は山田さんのアンソロジーと期せずして通底している言葉でもあるのかなと思ったんです。つまり、「短歌/川柳」を恩寵としてそこから主体を受け取るのではなく、いまある〈場〉のなかで〈場〉を意識しつつそこから「短歌/川柳」を一時的〈前線〉として送り出していく主体です。
慢心はいけませんねと左馬頭 小池正博
ぞろぞろさまよう雨後のソグド人 〃
五秘密の顔のひとつが分からない 〃
アウトなど阿部一族は認めない 〃
句集を読んですぐに気がつくのは語り手の〈文化資本〉をめぐるタームが頻出することです。「左馬頭」(日本史的教養)、「ソグド人」(世界史的教養)、「五秘密」(宗教史的教養)、「阿部一族」(文学史的教養)。
ここでは明らかに語り手のもつ〈文化資本〉をめぐる〈場〉が意図的に前景化しています。ところがそれと同時にもうひとつの特徴がある。それは、そうした教養的な〈文化資本〉的なタームを用いながらも、川柳という構造/文体のなかで構造的に卑俗化させることです。
「慢心はいけませんねと~」「ぞろぞろさまよう雨後の~」「~の顔のひとつがわからない」「アウトなど~は認めない」などの文体のなかに埋め込んでいくことで、〈教養的ターム〉を〈卑近な文体〉にひきずりおとす。
この句集の語り手はこうした〈文化資本的言辞〉と〈非・文化資本的言辞〉のはざかいとしての〈前線〉をたえず送り出しているように私には思われるのです。それが語り手にとっての川柳をつむぐ独特の場所なんじゃないかと。そう考えたときにこの句集のタイトルにもなっているこの句の意味もおのずとわかってくるように思います。
都合よく転校生は蟻まみれ 小池正博
「転校生」とは何かを考えた場合、転校生とは、名目上学校に所属していながらも、いまだその場のルールを内面化しきれていない点でその学校にとっては〈他者〉的存在でもあります。そこに所属しつつも・所属しきれない存在、それが「転校生」なのです。わたしはこの句集の語り手のひとつの特徴はそうした「転校生的語り手」としての位置性としてあるんじゃないかとも思うんです。どこかの〈場〉に置かれとどめながらも・そこに属することをしようとはしない〈転校生〉のような語り手。そしてそのただでさえ、〈前線〉を規定することが困難な「転校生」という位置性に「都合よく」や「蟻まみれ」といった位置性に対する恣意的なノイズを加えていく。そのことによって〈前線〉はさらに問い直されていくのです。
戦争に線がいろいろありまして 小池正博
ピエール・ブルデューの理論を考える理論、山田航さんの現代短歌を考える現代短歌アンソロジー、小池正博さんの現代川柳を考える現代川柳句集。
以上を通過しながら私がいま思うのは、〈前線〉というものは今やたえずあちこちに〈散在〉してあるものじゃないかということです。その〈遍在〉する〈前線〉に対して、めいめいがおのおのの固有の〈場〉を意識化しひきうけながら、(全体と全体がとっくみあう〈機動戦〉ではなく)部分的に〈陣地戦〉的言語/文化活動を繰り広げていくこと。
それが、いま、要請されていることなのかなと、おもうんです。桜は、もう、すぐそこです。
これからは兎を食べて生きてゆく 小池正博
ざわめきとして届けわがひとりごと無数の声の渦に紛れよ 山田航
0 件のコメント:
コメントを投稿