今回のシンポジウムのテーマは、昨年に続き、「字余り・字足らず」でした。司会の筑紫磐井氏から、昨年のシンポジウムの様子が冒頭で伝えられました。昨年はやや抽象的、論理的な内容が多かったようですが、今年はより実作者の視点から論じてもらいたいとの発言があり、実作者として俳壇で活躍中の伊藤伊那男氏、西山睦氏、中西夕紀氏、仲寒蝉氏の四名をパネリストとして迎えて、シンポジウムは始まりました。
まず伊藤伊那男氏からいきなり、俳句は有季定型なのだからそのかたちで俳句は作ればいい、との明快な宣言。人間の体でいえば、「字余り」は太り過ぎ、「字足らず」は夏痩せのようなもの。だから、意図的に健康体を損ねるようなことはしない方がいい、とのこと。「五・七・五」で詠めるならそれをわざわざ崩す必要はない、という明快な主張、いわば原理主義的な主張でした。
これに対し、司会の筑紫磐井氏から、他の三人のパネリストの言をひととおり聞いた上で、伊藤氏の主張に変わりないか聞いてみましょう、との発言があり、いったん伊藤氏のパートは終了。
次に西山睦氏。伊藤氏が原理原則で論じられたのに対し、西山氏は具体的な句を提示して、字余り、字足らずの効用を論じられました。字余りの場合は、上五の場合は一句導入への強調、中七の場合はクローズアップ、下五の場合は余韻をたっぷり残したり、念押しする、といった効果が期待できるとの説明。字足らずの場合は隠された一音がある、といったポイントが説明されました。定型を崩すことが俳句の豊かさにも繋がるということでした。
中西夕紀氏からも、西山氏の主張をさらに推し進めるかのように、具体的な俳句を提示しながら、字余り、字足らずの効果を論じられました。その際、氏がとりあげた例句を定型で作ってみせ、それと比較して論じられました。比較をすることで、定型を崩した方の句が作品として明らかに力があることを示され、あえて定型を崩すことも必要、俳句の可能性を広げると結論づけられました。
最後のパネリストである仲寒蝉氏からは、最初に氏の主張の立場を表明。俳句の可能性、豊饒性を考えて、氏は字余り・字足らずを良しとする立場で、先のお二人(西山氏、中西氏)の主張と同じ路線でした。具体論では、高浜虚子と赤尾兜子の俳句を比較提示されましたが、圧巻は虚子と兜子の俳句を破調と句跨りの数を年代を追ってグラフ化されたことです。膨大な句数を自身で数え上げ、データ化された点に脱帽でした。また、おもしろかったのは、赤尾兜子が30~40歳の頃が一番破調の数が多く、晩年は定型に収斂していったのに対し、高浜虚子は初期と晩年に破調の句が多くなっていることでした。筑紫磐井氏から、このあたりのポイントは作家論の中で見ていくのもおもしろいテーマではないかとの指摘がありました。
ひととおり四人のパネリストの主張が終わったところで、ほとんど時間がなくなり、最後にもう一度伊藤伊那男氏に三人の主張を聞いた結果としてどう思うかとの質問がありました。それに対し、伊藤伊那男氏は、有季定型と言ったのはあくまで原則論で言ったまでで、字余り・字足らずを全否定しているわけではない。ただ、字余りや字足らずをあえて無理に作って、リスクを背負う必要はないという立場である、とのコメント。
今回のテーマについては、けっきょく、俳句は一句一句の作品で見ていくしかないと感じました。ただ、冒頭で筑紫磐井氏が今回のテーマは「実作者として」という観点から論じてもらいたい、とのことでしたので、その点からすれば、伊藤氏が主張されたように、無理に定型を崩す必要はないのかもしれません。
一方で、仲氏が言った、五・七・五の俳句ばかりが並んだ作品を見せられるとたしかに味気なく感じることもあります。、俳句の場合、一句一句で読むだけでなく、句集や賞の作品のようにまとまったかたちで読む場合もあるので、そういうときに句跨りの句に出合うとなかなか魅力的に感じてしまいます。
さらに実作者として俳句の可能性を広げていく、ということを考えた場合、定型を崩すことで俳句表現の可能性が広がるように思います。
今回の四人のパネリストのみなさんの字余り・字足らずに対する考え方は、そう大きく違っていないように感じました。もちろん、許容の程度にそれぞれ幅はありますが、定型を崩した俳句にも魅力的であるという思いは伝わってきました。いずれにせよ、強引に字余りや字足らずを狙って作ることはほぼ失敗するだろうということだけははっきりしていたと思います。しかし、そうだとすればなおのこと、自分自身はもっともっと俳句を作り、勉強し、励んでいく中で、自然にそういう俳句が作れるようになりたいと思います。なぜなら、定型を崩した俳句で成功している句は、まちがいなく句の力が大きいと感じるからです。
(撮影:青木百舌鳥)
【筆者紹介】
- 仲栄司(なか・えいじ)
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