確かに内視鏡で見たことのある体の中は赤くて暗い。けれども、ここではあえて、「して」という表現である。「暗く」「赤く」しているのだ。
前句「蒼然と晩夏のひばりあがりけり」からの繋がりをみてみると、蒼然という「ぼんやり」と暗くなっていくような夕暮が想像できるが、それが掲句により「どっぷり」と暗く、そして夕焼の赤がもっともっと「赤々」としてくる。グラデーションが濃くなっていくイメージだ。
戦後の敏雄句のイメージには「赤」がつきまとう。
敏雄句の「赤」について、戦後俳句を読む(第6回の1)テーマ:「色」参照。
少年ありピカソの靑の中に病む 『靑の中』
を詠んだ敏雄が、戦後とともに赤にこだわっていく。
掲句で気になるのは、「胎内」とは書いていなく「体内」である。この句では、霧のような小さな命の粒となった我の胎内巡りのように見える。しかし「体内」となれば、その読みは、いくつかの別の見方がでてくる。
暗く赤くなる。もしそれが作者敏雄自身のことであれば、体の中が充血する、ということでもある。『眞神』冒頭では鬼が赤くなった。暗く赤くなったのは怒っているあるいは興奮しているからだろうか。そして体内が赤く充血したために霧がしづいた、という読みであれば、精子を放出したとも読めてくる。
敏雄の表現として、「赤い」のではなく「赤く」なるのが特徴である。
鬼赤く戦争はまだつづくなり 『眞神』
霧しづく體内暗く赤くして
産みどめの母より赤く流れ出む
またの夜を東京赤く赤くなる 『鷓鴣』
父、母がいて自分という命をもらう。生まれたことも死ぬことも選ぶことはできない。自分はただ霧がしづくような小さな命であり、体内を暗く赤くしながら生きる物体なのである、というようにも思える。
グラデーションが濃くなっていくように戦後の昭和がどす黒い赤になっていき、霧というものが油のように思えてくるのである。
25. 生みの母を揉む長あそび長夜かな
母から生れた命が成長し「母を揉む」という「長あそび」をしている長夜である。
あえて「生みの母」としている。乳母、あるいは継母ではない、直系の母である。「長あそび」をするのであれば、やわらかいからこそ揉むのだろうか。「生みの母」はやわらかい、乳母、継母ではなく、「生みの母」だからこそできる「長あそび」。何もかも許してもらえる夜長なのだ。女ではややこしくなり「長あそび」ができない、いや、「生みの母」としながら、あえて女のことなのかもしれない。敏雄句にとっての女性はすべて母なる体をもつ聖母のような存在であったのかもしれない。
『眞神』の中の母とは何であろうか。
母ぐるみ胎児多しや擬砲音
生みの母を揉む長あそび長夜かな
母を捨て犢鼻褌(たふさぎ)つよくやはらかき
産みどめの母より赤く流れ出む
秋色や母のみならず前を解く
ははそはの母に歯はなく桃の花
大正の母者は傾ぐ片手桶
夏百夜はだけて白き母の恩
母を女性としてとらえた句、正しくは、女性を母として捉えているという方が的確かもしれない。母の句に対しての考察はまだ時間がかかりそうだ。
ようやく『眞神』村に春が来た。敏雄句と真剣に向き合って1年になる。振りだし戻っているような気がしないでもない。狼信仰のある『眞神』山(仮称)。登山道の入口にある神社の宮司は水没した村の学校に住んだ校長家族の長男にあたる。烏天狗を参拝し改めて『眞神』考を続けよう。
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