昨年俳壇で最も話題となった人物は、堀田季何であったのではないかと思っている。
私が堀田と最初に知り合った時、夏石番矢代表の「吟遊」に在籍していた。しかし、次に会った時は小澤實主宰の「澤」に在籍していた。重なっていた時期もあったかもしれない。俳壇の最左翼と最右翼の師系に所属して違和感がないというのは、熾烈な伝統対前衛の対立の時代に初学時代を迎えた私にとって不思議な思いがしたものだが、それはやがて理由が判明する。
堀田のものの考え方がよくわかったのは、二〇一八年十一月十七日兜太シンポジウム(「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」)を開催したとき、何人かのパネラーにいくつかのテーマで基調講演を依頼した。この時のテーマに俳句の国際化の問題があり、堀田氏には「世界の兜太」の題でやや卑俗なテーマとなるが俳人(具体的には兜太)がノーベル賞を取るための条件を語ってもらった。実に該博な知識を持ち、多くの体験を通した条件をあげてくれた。結論は、➀作品を選ぶこと、➁優れた翻訳をすること、③そうした翻訳を大量に流通させること、④媒体を選ぶこと、⑤読者のレベルを上げること、などだ。面白かったのは➀で、日本ではどんなに優れた俳句でも外国人に伝達不能な俳句は紹介を断念した方がいいという、確かに考えればもっともだが、言われてみると実にドライで面白い。また➁では兜太の翻訳された俳句がいかにいい加減かを例を挙げて紹介する。
*
さて、堀田の俳句活動だが、堀田季何には3冊の句集があるが、それぞれに意味深長な句集であった。
➀『人類の午後』(二〇二一年八月邑書林刊)
昨年度の芸術選奨文部大臣新人賞、現代俳句協会賞を受賞した句集である。社会詠的な素材も多くあるが、かなり野心的な俳句を詠んでいた堀田にしてみると、私にしてみれば穏やかな句集というのが印象的だった。
自爆せし直前仔猫撫でてゐし
花降るや死の灰ほどのしづけさに
ぐわんじつの防彈ガラスよくはじく
にせものの太陽のぼるあたたかし
とりあへず踏む何の繪かわからねど
➁『星貌』(二〇二一年八月邑書林刊)
『人類の午後』と全く同じ年月日、同じ出版社から出ている句集である。そして、『人類の午後』と対照的に、全編無季俳句である。不定型・自由律さえ混じっている。
棄てられてミルクは季語の匂いかな
永遠は何千年も笑っている
黒い聖句は腐らずに発火する
弦かきならしかならしかなしなしし
宇宙の中心で凍っている夢は誰のもの
③『亜剌比亜』(二〇一六年春Qindeel社刊)
前出『星貌』の後半には付録として『亜剌比亜』が納められている。これはアラブ首長国連邦で行った吟行作品で、すべては超季もしくは無季の作品であるという。アラブ首長国連邦の出版社から出された日英亜対訳句集である。
あせるまじ砂漠はどこも道である
何事も神の手のうち冗談も
音は空間音楽は時間 薔薇
右方から書きぬ預言も睦言も
月の色さしてあらびあ真珠かな
堀田の句の作り方は通常無季と有季の両方作っているが、それを句集を出すときに有季句集と無季句集の二つに分けるのだ。上に見たように、同日付で同じ出版社から有季の『人類の午後』、無季の『星貌』を出した。たぶん本質的には、第一句集『亜剌比亜』が超季・無季の作品集であることからも無季作家と言ってよいだろう(超季とは、吟行したアラビアでは日本の季語を使っても日本の季節感はないからである)。その意味では、非常に戦略的である。可能性としては俳人協会賞と現代俳句賞、両方を取れる可能性もあるくらいだ。また、堀田の句集の取り上げ方によって、批評家の見識が問われることになるという意味で非常に面白いものとなっている。
(以下略)