Ⅴ 高木一郎(たかぎ いちろう)さんの場合(3)
【】の表題は、『ボルガ虜愁』で高木さん自身のつけた表題である。
以下*は、『続・シベリヤ俘虜記』『ボルガ虜愁』の随筆をもとにした筆者文
【炎天を銃もて撲たれ追はれ行く】エラブカ収容所
キズネルの街の朝顔濃紫(ボルガ慮愁)
添え書き:7.18ダモイということで貨車へまた騙されたことになり7.22 キズネル下車
炎天を銃もて撲たれ追はれ行く(続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ慮愁)
添え書き:キズネルよりエラブカまで80キロ、酷暑炎天下、三泊四日野宿。飲料水無く後に「死の行軍」という。
*1946(昭和21)年7月18日、ダモイと騙されて貨車に乗りキズネルで降ろされた。キズネルの街の朝顔が濃い紫色だったと言っているだけの句のようにみえるが、日本にもみた朝顔が遥か遠く離れたロシアの地キズネルにも咲いている。一時朝顔に心安らいだ気持ちも束の間、キズネルよりエラブカへ徒歩で3泊4日の移動をする。酷暑の中水も飲めない行軍である。
『続・シベリヤ俘虜記』P.112には、行軍の過酷さをこう書いている。
たまり水でも飲もうとすれば、ソ兵が自動小銃をぶっ放して飲ませない。ラーゲル生活2年目で体力の弱った日本人がソ兵に銃でなぐられながら荒野を行く。
エラブカは金盞花咲き山羊が跳ね(ボルガ慮愁)
*エラブカBラーゲルへ収容される。ラーゲリには花壇が作られており、金盞花の花が咲いていて、心を和ませてくれた。『続・シベリヤ俘虜記』P.112~113には、エラブカ収容所にはロシア正教の旧修道院、丸屋根に金色の十字架が立っていた。待遇はラーダよりも良くなって日本人の心も安定したようだとある。
船ゆるく波紋に秋の雲くづれ (ボルガ慮愁)
*句からは港にゆっくり入って来る船の航跡から伝わる波紋に秋の雲がくづれていく。という写生句である。
高木さんは、過酷な作業の合間に刻々と波紋に姿を変える雲に意識を飛ばしているのである。
【おろしやにわれ三十の年明けぬ】 ボンジュガ収容所
秋雨に濡れしまま寝る夜がきぬ (続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ虜愁)
添え書き:三交代のボルガ河荷役仲仕作業。3千トン級の船。労働過酷のため波止場で座り込みストをやったところ、民兵がおどろいてピストルをぶっ放した。
*9月は秋雨の季節。苦役作業ですっかり濡れそぼった衣類を乾かすこともで
きず眠らなければならない夜がくる。
雪晴のボルガ青々雁渡る (ボルガ虜愁)
*9月には雪の降るロシア。ボルガの空の青々と広い空を雁が群れをなして日本などの越冬地への渡りをみると日本への望郷の念は募るのである。いよいよ厳しい冬の到来である。
紙衣着てボルガの風に対しけり (続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ虜愁)
添え書き:セメント袋を拾ひ、首と腕の出る穴をつくりポンチョとする。
*秋風の身に沁みる季節、ボルガ川を渡る風は冷たい。高木さんはセメント袋首と腕の出る穴をあけてかぶり、風よけにして作業をした。
合唱の窓の灯明るき大吹雪 (ボルガ慮愁)
添え書き:冬将軍と共に労働は減り歌声も出るようになった。
*冬の到来とともに強制労働は減り、吹雪の夜はペチカの周りに集まり、皆で歌を合唱するのである。
ひとり焚く真白き部屋の壁ペチカ(ボルガ慮愁)
添え書き:医務室開設。渡辺医師と私に一室を与えられた。これまでは一般労働作業をしていた。
*新しく与えられた真白き部屋(医務室)の壁ペチカを今は独りで焚いている。これまでは、皆で仕事をしてきたのだが・・・
【いと巨き韃靼の月血の色の月】再びエラブカ
雪晴の窓の日ざしに抜きし齲歯 (ボルガ虜愁)
添え書き:アンブラトリア歯科室勤務となる。(略)
*再びエラブカに戻ると、歯科室勤務となる。
白夜しんかん妻ある如く帰り寝る (ボルガ虜愁)
添え書き:歯科室をロックして、居住棟へ。3階にある。2段収容。
*再び生業である歯科診療に就いた。診療が終わり、居住棟へもどる。作業場から疲れ果て泥のようになって、ラーゲリに戻っていった毎日に比べると、敗戦前の妻との日常を取り戻したかに感じるのである。
心ふと子にあり白夜い寝がてに (ボルガ虜愁)
*なかなか寝付けない白夜の夜には、子どものことが心に浮かびまたさらに郷愁に寝付くことが、できないのである。
うとまれて外寝の毛布ひろげけり(ボルガ虜愁)
添え書き:人とのわずらはしさをさけて戸外へ
*これは夏のころのことであろうか。歯科診療室で働くようになり、仲間との心の距離が開いてしまったのか、人間関係のわずらわしさに戸外で毛布を広げ眠ろうとしている高木さんの心の内には、複雑な思いがあったのだろう。 (つづく)
『続・シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~』小田保編 双弓舎 平成元年8月15日
『ボルガ虜愁』 高木一郎著 (株)システム・プランニング 昭和53年9月1日発行
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