――齋藤玄が創刊した「壺」(現在、高橋千草主宰)という雑誌があり、その雑誌に「俳句望羊」という欄があり、以下の記事は昨年8月に寄稿したものである。ちょうど当時あったいろいろな事件を踏まえて時評風に描いたものであるが、メインテーマは社会性俳句に関するものであった。
1年後の今年8月、再び社会性俳句について同じコラムで書く機会があったので、以前の原稿も読めるようにした方がいいと思い掲載させていただくことにした。高橋主宰、河原編集長に転載のお許しを頂いたお礼を申し上げる。
●現代の社会性俳句
筑紫磐井
最近の俳壇の最もホットなニュースとしては、今年の二月に九八歳で長老金子兜太がなくなったことと、その兜太亡き後の朝日俳壇の選者に四九歳の高山れおなが就任したことであろう(朝日新聞六月一七日発表)。特に、高山は一度も結社に入ったことなく、一貫して同人誌「豈」で活動してきたことで余り俳壇的にも知られていない作家であったから衝撃的であった。
しかし、金子兜太ーー高山れおなという系譜は、ある意味もっともなところもある。彼らの作品を眺めてみよう。
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 兜太
華麗な墓原女陰あらわに村眠り
麿、変? れおな
げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も
このように、兜太以後、社会性・前衛の系譜を継いでいる四十代作家は高山れおなしかいないという意味では、朝日俳壇選者の選定は一貫しているのである。
* *
この二人を考えたとき、今は昔となっている「社会性俳句」を思い出した。「社会性俳句」とは、昭和三〇年代の一時期に前衛俳句に先がけて猖獗を極めた俳句運動であり、金子兜太、佐藤鬼房、鈴木六林男などの他に、その後伝統俳句に回帰した沢木欣一、能村登四郎なども活躍していた時期があった。しかしその俳句は、文学性が乏しく、社会的メッセージにすぎないという批判が、伝統俳句からも前衛俳句からも寄せられ、今では殆ど語られることも少なくなった。しかしそれは正当な評価であったろうか。
赤城さかえの名著『戦後俳句論争史』によれば、社会性俳句は角川書店から創刊されたばかりの「俳句」で大野林火編集長が就任そうそう編集した特集「「俳句と社会性」の吟味」(昭和二十八年十一月)を契機に始まったと言い、それが通説となっているが、どうもそれは間違いらしい。例えば、「寒雷」(後に「鶴」)の作家岸田稚魚が、基地問題を詠った大作「演習水域」を昭和二十八年二月に詠んでいることからも立証される。私の仮定では、実は社会性俳句の嚆矢は「馬酔木」「寒雷」「鶴」の伝統作家たち――特にその中のリアリズム派が、自然以外の社会を詠むことによって厳しい社会批判を行ったことに始まる。
そして実は、本誌「壺」もまんざらそれに無関係ではないのである。東大医学部を終え軍医として北支に派遣後、病気を得て帰還し、北海道の函館病院に勤務していた相馬遷子という作家がいる(後に、馬酔木の同人会長となり、俳人協会賞を受賞した)。北海道時代、「馬酔木」「鶴」の同人であった関係から齋藤玄と密接な交流があり、一時「壺」同人となっていたのである。
遷子は函館病院の後は、故郷の佐久に戻り、開業医を務めた。そして昭和二十二年以降自分が病気になる四十年代まで、一貫して開業医として俳句を詠み、その中で、自分も、社会も、行政も、地域に対しても、批判的な筆致で医療弱者を詠み続けた。前述の昭和二十八年が通説の社会性俳句元年とすればそれ以前から、さらに社会性俳句がすっかり時代後れになった時代まで、社会性俳句を営々と詠み続けたのである。是こそ真の社会性俳句ではないか。
なぜ開業医俳句が社会性俳句となるのか、―――それは地域医療の最末端の開業医にあらゆる社会的矛盾が押し寄せてくるからである。最も貧しい佐久は日本一脳卒中死亡者の多い後進医療地域であったのである。
例をあげてみよう。
正月も開業医われ金かぞふ 二三年
自転車を北風に駆りつつ金ほしや
往診の夜となり戻る野火の中 二八年
陳情の徒労の汗を駅に拭く 二九年
愛国者国会に満つ日短き
ストーブや患者につづる非情の語 三〇年
汗の往診幾千なさば業果てむ 三二年
筒鳥に涙あふれて失語症 三四年
貧しき死診し手をひたす山清水 三五年
隙間風殺さぬのみの老婆あり 三六年
卒中死田植の手足冷えしまま 四一年
病者とわれ悩みを異にして暑し 四二年
凍る夜の死者を診て来し顔洗ふ 四三年
こうした社会性俳句が日の目を見るのは、現在では朝日俳壇だけなのである。事実、金子兜太はなくなるまで反戦俳句を顕彰し、「アベ政治を許さない」と糾弾した。四十代の高山れおながどのように社会の問題を取り上げるかを皆が注視している。
高校時代に金箱先生に漢文を習い、大学教養は近藤潤一先生に国文学を習いました。相馬医師の句を紹介して下さりありがとうございます。自分では川柳を作っています。
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