五月一日を以て令和を迎えたところから多くの俳句総合誌が平成回顧特集を組んでいる。「俳句」は「さらば平成」と題して、巻頭随想を鴇田智哉が執筆し、九二人による俳人アンケートとそれを踏まえた座談会「平成百人一句」の特集を行っている。「俳壇」では「平成俳壇展望」として、一二人による次代に遺したい平成の俳句・俳書を掲げている。「俳句界」では「平成俳句とその後」と題して高柳・仙田・田中・生駒が座談会、若手によるエッセイ、平成を代表する七句選を行っている。「俳句アルファ」は特集がないが、これは昨年秋に「平成の暮れに」と言う特集を行っているためであろう。本当に何の特集も組んでいないのは「俳句四季」であるが、この雑誌はいつもこうしたきわものめいた特集を忌避しているのが特徴である。
二か月遅れのこの月評ではむしろ遅れたことを生かして、各特集を横並びに眺めて見て、品評してみたい。
(中略)
平成俳句論
では俳句のランキングはそれとして平成の俳句とはどのような特徴を持っていたか。
「俳句」五月号で巻頭随想として鴇田智哉が「俳句の不謹慎さ、そして主体感」を執筆している。前半が鴇田の俳句経験、後半を俳句のありようとして論じているが、特に後半が鴇田の主張をはっきり出しているのでそれを見てみたい。多くの俳人の中でも鴇田は震災俳句を一番厳しく批判している。感情を伴う事柄を簡単な熟語(「震災忌」「フクシマ忌」のような)に還元してワッペンを貼るように俳句を作っていると批判する。こうした俳句の決まり事に違和感を覚えているのである。その結果、こうした一見真面目に見える決まりごとの世界を批判し、俳句の本質は不謹慎さにあるとまで言っている。もう一つは、若い俳人たちの新しい俳句の世界に主体感を感じ取ろうとしている点だ。言ってしまえば鴇田は、平成以後の俳句に新しい主体感のあらわれを感じているようだ。
「古今のあらゆる句には、その句特有の主体感があり、私たちはそれをうすうすと感じてきたと思う。ただ、俳句が語られる時、それは今までの時代、あまり言語化されてこなかったと思う。主体感を感じ取る感性を育て、それを言語化して語ることは、これから俳句を読み、また作るうえでの鍵になるという予感が、私にはある。」
前者(震災俳句)と後者(主体感)に直接のつながりはないように思うが、平成という時代の問題点と期待感と見れば分からなくはない。ただ鴇田がいう「主体感」はそれぞれの時代時代にある「情緒」であり、例えば伝統俳句の復興が叫ばれた昭和四〇年代の飯田龍太・森澄雄・能村登四郎、草間時彦らの清新な抒情作品には言外に現代性を感じさせる情緒が漂っていた。「主体感」などというと少し頭でっかちになりそうな気がする。
多分、鴇田が批判しているのは、「俳句アルファ」三〇年秋号の「「平成」と俳句」と題した宮坂静生・長谷川櫂・対馬康子が行った平成回顧座談会に表れる俳句観であろう。この座談会は、長谷川櫂が終始主導しているから長谷川櫂の俳句観といってよいであろうが、彼は平成俳壇を「末期的大衆俳句」と言っている。
両者の違いは鴇田が平成俳句を自らの(或いは自らの世代の)俳句として語っているのに対して、長谷川は平成を超越した俳人長谷川が平成俳句という流行を批判しているという点に尽きているように思う。鴇田に対して共感を持つのは、常に俳句を語るものは自分を語ってこそ正直となれるからだ。兜太の乱暴な造型俳句論も、それが是か非かは別として、実は同時代を語っていたのである。上から目線で見た俳句観ではない。だから人を動かす力を持てたのである。
この違いは大きい。長谷川の視点から「令和の俳句」は暗い。明るく成りようがない。鴇田には薄明かりがさしている。
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なお、ここで触れられなかった「俳句界」五月号の「平成俳句とその後」の座談会は両者の中間にあるといえよう。というより、こうした座談会は、過去の回顧にはいいが、未来の展望を語るには向いている形式ではないような気がするのである。
※詳しくは「俳句四季」8月号をお読み下さい。
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