2019年1月11日金曜日

【葉月第1句集『子音』を読みたい】2「魔女の途中」 田中葉月を考える  森さかえ

   葱白し七つの大罪ほぼ犯し          田中 葉月

 七つの大罪というのは、キリスト教において、他のもろもろの罪の基になると考えられた「虚栄、貪欲、色欲、暴食、憤怒、嫉妬、怠惰」という七つの罪である。この七つの大罪をテーマにしたサイコサスペンス映画の「セブン」はブラッドピット主演でヒットした。その七つの大罪ほぼ犯したという、田中葉月というのは、いかなる俳人であろうか。
私は、少女の純真さと脳天気さを持ちながら、魔女の狡猾さと怖ろしさを合わせ持つ、そんな彼女の俳句が好きである。
 自分でも、句集「子音」のあとがきに「未だ定まらぬ句の傾向にもどかしさはあるものの、日常と非日常、実と虚を行ったり来たりできる自由な翼を持てる俳句が楽しい」と書いている。
 自分で言っているように、確かに句の傾向が定まらないところがある。

 もう一度抱つこしてパパ桜貝
 陽炎やふりかへらない君のゐて
 まあだだよ野遊びの背に父の声
 春光をあつめ片足フラミンゴ


 このへんの句は、悪い句ではないが、日常の実のまんまで飛び立てていない句ではないかと私には思えるのである。一読「はあそうですか」という感想で終わってしまうのだ。

  遠足のメザシぞくぞくやつて来る
  春の日をあつめて痒しマンホール
  あのときのあなたでしたかアネモネは
  短夜や心音独り歩きして
  風薫るをとこは凡そ直列で


 田中葉月という俳人は、ある意味、現状に満足をしている生活者である。俳句も、現実のふとした日常から題材を取って、そこからあれこれ構成していくのだと思う。だから、ややもすると現実のまま、そのまんまの日常にからみとられた句を作ってしまいがちなのである。だが、そこに、魔女のささやきが入って、言葉がうまく飛んでくれると、実に面白い句が出来あがる。
 一句目、「遠足のメザシぞくぞくやつて来る」って、どういうこと?お弁当にメザシが入っているの?なんていう疑問を吹っ飛ばしてメザシはぞくぞくやって来るのだ。ちょっと怖い。
「春の日をあつめて痒し」は、なんとなくわかる気がするけど、「マンホール」って、なに?マンホールが痒いのか?と読者に色んな事を考えさせるのである。この意外な飛び方は面白い。
 三句目も、「あのときのあなたでしたか」で軽く切れているのだが、読みはストレートに「あのときのあなたでしたかアネモネは」と読んでしまう。で、「アネモネ」って誰?ということになる。
 独り歩きする心音、直列の男達、読者をあしらう魔女の部分である。乙女チックなポエジーから魔女的な詩が生まれてくるのである。
 「魔女の途中」という、勝手なタイトルも、田中葉月という俳人が、乙女チックな平凡な俳人から、したたかで狡猾な魔女的俳人への途中であるという意味合いである。

 父の日やそろそろ父の顔をぬぎ
 冷ざうこ裸の卵ならびをり
 栗名月ひらたいかほで正座して
 コスモスやもうにんげんにもどれない
 半音のかすかにずれる鰯雲


 一句目、家族の前では父だが、家庭を離れるとまったく別の顔を父は持つのである。父は父であって父ではないのだ。
 二句目は、「裸の卵」が発見である。言われてみれば、確かに卵は裸なのだろう。
 三句目、「ひらたいかほ」が、名月を見るにふさわしい顔のような気がしてくる。
 四句目、七つの大罪ほぼ犯すような人はたしかに「もうにんげんにもどれない」かもしれない。
 五句目、歌を歌うのか、楽器を弾くのか、そんな日常の中での半音のかすかなずれである。取合せの「鰯雲」もきいている。

 マスクしてみな美しき手術台
 まづ一つボタン外して卵酒
 葱白し七つの大罪ほぼ犯し
 凍鶴やうざうむざうに脚あげて
 風花す銀紙ほどのやさしさに


 手術台というと、「手術台の上のミシンとこうもり傘の出逢いのように美しい」という、ロートレアモンの言葉を思い出してしまうのだが、作者はそんなこと関係ないのだ。「マスクしてみな美しき」というのは、実体験をもとにした言葉らしいのだが、現実を飛び越してしまう面白さがある。
 「まづ一つボタン外して」って、なんでボタンを外すの?と思ってしまう。ちょっとエロスの香りがして、男はコロリである。でも、「卵酒」は、動きそうな気がする。
 「凍鶴」の句は、さきのフラミンゴの句と比べれば、その面白さがよく分かる。片足あげた普通のフラミンゴにくらべると「うざうむざうに脚あげ」た凍鶴はイメージの世界へ勢いよく飛び立つのである。
 「風花す」の句は、「銀紙ほどのやさしさに」が決め手である。色んなやさしさがあるが、「銀紙ほどのやさしさ」が意表をついて面白い。イメージが出来そうでできないもどかしさも魅力である。

 田中葉月は発展途上である。と、私は勝手に思っている。日常の現実に安住してしまったり、安易な言葉の遊びに流れるようであれば、発展途上のまま終わりそうである。だが、そうはならないと思うのである。言葉のほうきに乗って、自在に俳句の空を飛びまわってほしいものである。

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