金子兜太の逝去と前後するように、加藤瑠璃子氏が選者をする「寒雷」が、創刊九〇〇号を迎える七月で終刊することが報じられた(三月号)。選者の加藤氏が体調がすぐれないことは誌面で伺っていた。後継誌の誌名は「暖響」と決まり、八月創刊、選者は江中真弓氏となったそうだ。新体制を報じた四月号には、客員としての兜太の逝去(「海程」も七月終刊)も報じられているから、二、三月は楸邨一門にとってまことに慌ただしい時期だった。
さて、戦前人間探求派と呼ばれた加藤楸邨と中村草田男だが、草田男により昭和二一年一〇月に創刊された「萬緑」は、昭和五八年草田男没後香西照雄などに承継されたが平成二九年三月終刊となり、後継雑誌として横沢放川主宰の「森の座」が創刊された。草田男の亡き後の「萬緑」は三三年間続いたことになる。一方、楸邨により昭和一五年一〇月創刊された「寒雷」は、平成五年楸邨没後加藤瑠璃子氏らを選者として継続されたが、今般終刊することになった。楸邨亡き後の「寒雷」は二五年続いたことになる。これほど偉大な作家たちでも、二、三〇年という時の経過は、子飼いの弟子たちの物故や独立によりその純粋な思想を維持できなくなったのだ。
人間探求派のもう一人の巨頭石田波郷は、昭和一二年「鶴」を創刊し、昭和四四年一一月波郷没後は石塚友二らが承継しており、現在も継続している。確かに、山本健吉が司会をした「新しい俳句の課題」座談会――いわゆる人間探求派座談会(「俳句研究」昭和一四年八月)に同席しているが、しかし、波郷は純粋には人間探求派とはいいにくかった。古典派、境涯派に変身していたからだ。以後の波郷は「俳句は文学ではない」「俳句は・・・打坐即刻のうた也」「俳句の晩鐘は俺がつく」という伝統的志向を強める一方、俳壇のプロモーターとして活躍したから別扱いした方がいいだろう。兜太が波郷を嫌っていた理由だ。
その意味で、真の人間探求派は楸邨と草田男であった。そしてまた、この二人の強い影響の下に、社会性俳句も生まれたのである。社会性俳句の代表作家、金子兜太、沢木欣一、古沢太穂らの多くは楸邨門に育った。そして彼らはまた、草田男と論戦を進めながら戦後派世代のユニークな俳句を形成した。なにしろ、「社会性俳句」という呼称自体、草田男の戦後句集『銀河依然』の跋文における「社会性」に触発されたものであるからだ。
その意味では、社会性俳句の父でもあり母でもあった楸邨と草田男の肉体は速く滅んでも、その思想のアリバイとして結社「萬緑」「寒雷」が残っていたことは戦後史の臍の緒が残っていたようなものである。しかしその臍の緒が切れてしまったのである。そしてその社会性俳句を体現していた金子兜太――特に最後の数年は反戦俳句活動を含め、昭和二〇年代の活動が復活したように見えなくはない――がなくなり、結社「海程」が同じ時期に終刊することは、戦後俳句の遺跡が消えてしまったような寂しさを受けるのである。
(以下略)
※詳しくは「俳句四季」6月号をお読み下さい。
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