2015年1月23日金曜日

【鑑賞】 小津夜景「THEATRUM MUNDI」を読む -ことば、記憶、生(死)- / 瀬越悠矢



*頁数は、連載最終回(2014年9月26日)付録「THEATRUM MUNDI」)による。

(2016/07/20 編集部追記:「THEATRUM MUNDI」は小津夜景さん御本人のご依頼によりPDFリンクを外しました。よって本稿の頁数は参照できません。)


ことばが迫ってくる。意味の脱臼をもくろむことばの数々はかろうじて、私たちのなかで、像を結ぶ、あるいは結ばない。ことばの側に立つならばそれは、みずからに共鳴するものが見いだせるか否かのせめぎ合い、ということになる。

万りよくを生かぢりしてしやつくりす(31頁) 
誤字となるすんでの水を抱き寄せぬ(72頁) 
ナフタリンのやうだ二人は抱きあつて(107頁)

詩的言語の一つひとつは、辞書から引き出される単なる素材ではない。そうではなくて、それらは意味に回収されない確たる物質感を備えているために、翻って、機能を果たすが早いか消えてしまう、日常言語の脆弱さの方があらわになる。

あらわれることばは、しかし、必ずしも無署名ではない。そこには、透かし絵のように、なんらかの主観がほの見える。少なくとも、そのように振る舞うものがある。一見すると無愛想なことばのなかで、私たちは、なにものかの内的世界に触れる。

尨毛ただよきことのみを思ひ抱く(6頁) 
いかさま師さまざまの海思ひ出にき(29頁) 
思ひ出すまで邯鄲といふバター飴(103頁)

なにものかが、なにものかを、〈思う〉。だがなにものが、なにものを、〈思う〉のか。「尨毛」、「いかさま師」、「邯鄲」、「バター飴」が〈思う〉のか、詩人が、あるいは読者が〈思う〉のか。問いが虚しいとすれば、むしろ〈思う〉というはたらきそのものに目を向けてみてはどうだろう。

詩における一人称が三人称に近い価値をもつとすれば、この〈思う〉は、個人的というよりは、集合的な行為かも知れない。主語がしばしば不明瞭な日本の古典も、不思議と違和感なく受けいれられるように、〈わたし〉と〈わたしたち〉はさほど遠くはない。そして、〈わたしたち〉の内的世界は、〈わたしたち〉の記憶と切り離せないはずである。


残虹をまたぐ或る記憶のなかで(15頁) 
八月のくぢらを愛す老嬢よ(22頁) 
酸欠や煮こごりほどの記憶ある(89頁)


写真は消え、思い出は残ります。」映画『八月の鯨』(1987)のなかでの、ベティ・デイヴィスの台詞。目の不自由なこの姉にとって、記憶は自らが住まうことのできる唯一の場所である。だからこそ彼女は、「わたしの記憶は消えません」、と譲らない。


記憶はまた、死者の記憶でもある。生者はその存在において、死者に負い目がある。生者が死者と出会い得るとすれば、幽霊との対話でない限り、それは生者の記憶のなかでしかないだろう。こうして、私たちは死生の境まで導かれることになる。


昼寝からさめたら、死んだ人が生き返つてゐて、誰かの用意したテーブルがあつて、美味しくて良い香りのするその食事をわらわらとぞんざいに囲む、そんな願ひが叶つたらどんなに素敵だらう。(21頁)

「みんな、グレース・ケリーのこと、ずつと忘れてないんだよ。彼女がお嫁に来る前の晩も、とても静かで寂しい雨が降つてゐた。雨の広場にくると、わたし、今でもその夜の事を思ひ出すんだ」(38頁)

「この墓碑詩は、どうか『辞世の詩』でなく『闘争前夜の総括詩』と呼んで貰ひたい。〔…〕全ての詩人は、まづ墓より始めよ」(65頁)


二つの批判。一つ。ほんとうに記憶は消えないのか。〈わたし(たち)〉とはおそらく、〈わたし(たち)〉の記憶である。それはよい。しかし記憶とはつねに、クロノスの引き裂きに抗する歴史さながら、忘却の危機に曝されているのではないか。〈わたし(たち)〉の存在は、さほど自明でないのではないか。

夜の桃言はで思ふも忘れなむ(7頁) 
忘我ゆゑわれらは空き家ボローニャ風(72頁) 
遠の世を忘れた頃に小鳥来る(101頁)

二つ。そもそも、このような〈わたし(たち)〉を起点とした幽明の境自体、乗り越えられねばならないのではないか。なぜなら、一切の意味の消失のあとには「生も死もなくなる」のだから。「意味を取り去つてなほも構造できると嘯く人は、世界を眺める『私』を取り去るのを忘れてゐる」(41頁)のだから。

ふと意味にとどかざる紙魚匂ひけり(5頁) 
夢は井戸/汲みし昔は/遠けれど(20頁) 
死ぬまでに出アバラヤ記書いてみやう(105頁)

〈わたし(たち)〉なきところに立ちあらわれる、「あるともないとも言へない風体で一切が漂ふ」(41頁)様態こそ、世界劇場(THEATRUM MUNDI)ではないか。しかし、この世界は、あらわれるやいなやその困難を運命づけられている。〈わたし(たち)〉なき世界を白い紙の上に生起させるのは、やはり〈わたし(たち)〉にほかならないからである。たとえ「すべての記憶を真実とみなすことはでき」(104頁)ず、また書いているという状態が、「夢を見てゐるのとまるきり同じ」(105頁)であるとしても。

こうして再び、私たちは眼前のことばに差し戻される。ことばの連続がどこまで俳句的かは、本質的な問題ではない。それは現代芸術の意義を、受容者の喚声や感涙に求めるようなものである。季題や切れ字を含めてあらゆることばが一度相対化されてはじめて、ことばの価値を平等に問うことのできる地平が、十七音のなかに拓かれるのではないか。

掲載週降順という「タイムマシン方式」によって、曰く「野人の句あそび」が「どんな風に蛇行しつつ発展してきたか」(120頁)をたどる。「THEATRUM MUNDI」はそのように、詩人の(あるいは〈わたし(たち)〉の)記憶をたどることばの冒険であり、同時にその相対化である。別言すれば、それは「『ならねばならなかつた現実』から『あるがままの実現』までを馳せくだる眩暈」(50頁)の、ひとつのレッスンである。




【執筆者紹介】

  • 瀬越悠矢(せごし・ゆうや)

1988年兵庫県生まれ。関西俳句会「ふらここ」所属。




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