『安井浩司俳句評林全集』(沖積舎)が刊行された。三つの評論集(『もどき招魂』『聲前一句』『海辺のアポリア』)に加え、昭和四三年から平成二三年までの評論を抄録した一冊である。安井の同行者のなかにはこの一巻を懐かしさとともに抱きしめる者もいるにちがいない。だが、そのような想像は僕にとってたまらなく寂しいものでもある。本書の栞文のなかで関悦史は「安井浩司の評論は『海辺のアポリア』や『もどき招魂』のような、個人的な来歴が文中に織り込まれたものに限らず、すべてが安井浩司の〈私〉に由来している」と記しているが(「俳句からの召喚」)、安井の評論に通底する〈私〉とはいかなるものであろう。思うに、その〈私〉なるものを理解することの不可能性に向き合う寂しくもつつましい態度こそ、「安井浩司」を読むときに求められるものなのではなかろうか。
たとえば折笠美秋の『虎嘯記』について次のように記す安井を前にするとき、僕はますますその諦念を強くするのである。
いま、『虎嘯記』を一読し了えたのだが、後半篇の作品はもとより、中村苑子の跋文、作者自身の献辞(後記)へと進むにつれて、何とも悲痛である。病床の兄(けい)を思い起しては、私も腸を断つ思いだ。しかし、ちょっと待って欲しい。難病とはいえ、不治ではない。治るのだ。げんに、重症候から次第に快癒に向った症例報告に接したこともあり、私の周囲でも、小康を得て、普通人と同じく長命で幸福だった人もいる。この『虎嘯記』は、だから、慰めの具として用意されたものであってはならないだろう。折笠個人にとって、生きてあることの痛切な証しの書であり、生きようとする決意によって支えられているはずだ、というふうに解さねばなるまい。
(「『虎嘯記』に寄す」)
このように述べたうえで折笠の「俳句おもう以外は死者か われすでに」についてさらに次のようにいう。
この作を読んで、大方の人は泣き伏すだろう。それがいけないのである。そんな短絡な接し方をしては、俳句作家たる折笠が困ろう。作者は、この句を書くことによって大いにテレているのである。自分が、もう一人の自分に対して、たっぷりイロニーの効いた辞(ことば)を送りつけたのだ。
折笠美秋のその後を知っている僕たちにとって、友情に満ちた安井のこの一文はなんともいじましいものに思われはしないだろうか。「俳句おもう以外は死者か われすでに」が、実際のところ安井のいうようにイロニーに満ちている句であるのかどうか、僕にはわからない。ただ大事なことは、安井が「自分が、もう一人の自分に対して、たっぷりイロニーの効いた辞(ことば)を送りつけたのだ」と書くとき、その言葉の強度を保証するものが折笠への友情の深さであったということだ。だから、たとえ誰が何と言おうともこの言葉は安井にとって嘘であってはならなかっただろうし、今もなお嘘ではないだろう。そういう強度で書かれたものを僕たちが理解することなどできるのだろうか。
じっさい僕にとって折笠美秋とは、すでに鬼籍に入った俳人であり、『虎嘯記』や「否とよ、陛下!」をはじめとする数々の評論に接したのはその死のずっと後のことだ。いわば折笠の生と死とに当事者として立ち会ったのが安井であって、僕はあくまで非当事者なのであった。さらにいえば、そのように書くことで安井浩司が「安井浩司」であったのだとすれば、僕は「安井浩司」に対してもまた非当事者なのであった。思うに、僕が安井の句や文に感じる取りつき難さとは、こうした非当事者としての負い目の感覚の累積が作用したものであるように思われてならない。
安井はまた、寺山修司や大岡頌司について次のように語る。
いまや懐かしい『遠船脚』は、大岡頌司個人のみならず、私たちの遺産の一つであると思っている。あまり誇れるものもない中で、貴重な遺産の一つというべきであった。私たちといえば、かつてそこには一つの世代、ごく狭義の世代があって、それは昭和二十八・二十九年頃、〝寺山修司〟の俳句運動に象徴される一つの世代意識である。直接に寺山修司と関係のないグループもあったが、しかし寺山の波及力を考慮に入れると、けっきょく寺山を中心に私たちの世代のサイクルは回転したとみるべきであろう。
(原文は「私たち」に傍点。 「『遠船脚』と大岡頌司」)
寺山や安井を語る安井は何といっても彼らの生と死の当事者であったし、少なくとも当事者であろうとし続け、そこに拘り続けることで「安井浩司」であったように思う。そして、安井の評論に通底する〈私〉とはこうした拘りの謂であって、その意味での〈私〉が「俳句」と切り結ぶとき「安井浩司」の一句が立ち、一編の評論が立つのではなかったか。だが、寺山を語るとき、昭和五五年においてすでに「彼の俳句行為に斬り込んで書けるのは、今は大岡頌司ぐらいのものだろうか」といい「〝精神の同時性〟なるものを感じ合った昔日の仲間はみな消えたというのが、正直な実感である」といわなければならなかった安井の困難と、その困難な状況に立脚する矜持とは、はたしていかなるものであったろう。
君は未だ俳句をやっているのか、正直、私はこの言葉をあまり聞きたくはない。これは、もしかしたら、友人の嘴を借りる以上に、私が私自身に向けた大きな皮肉の言葉であるかもしれない。彼等はみな俳句を去り、私だけが昔ながらの領地に踏み止どまっている。変わりばえのしない寒村の墓を守っている。どうして、そういうことになってしまったのか。しかし、これは紛れもない事実である。いつのまにか、私の魂は俳句に搦めとられ、ひたすら俳句という名の墓碑を守る醜い面相の男になっていたのだ。
(「海辺のアポリア」)
この「俳句という名の墓碑を守る醜い面相の男」を自らの姿として引き受ける安井において、安井の〈私〉はもはや単なる個人的な拘りの域を超え、俳句形式と対峙する僕たちの態度を問いただすものとなる。極限まで〈私〉を掘り下げ、その〈私〉に根ざした思考であればこそ「俳句」についての根源的な問いへと突き当たるのである。安井はいう。
おそらく、自ら問い、自ら受けて、あらゆる状況にあっても成立すべき唯一の問いとは、しからば《お前はどうするのか》という一言だけだろう。一体、お前はどうするのか。《お前》―「私」、極としての「私」しか答えざるをえないことを前提とした問いだ。「私」が問うことと答えることを所有する、この原初としての問い。
(原文は「極」に傍点。「定型の中で」)
けれど、それでもなお僕は、こうした安井の言葉を理解できるとは思いたくないのだ。いったい、このように書きつけられた安井の言葉を理解できるということは、どのような倫理によって可能なのだろう。こういう言葉を理解できたと語るのは、「安井浩司」をあまりに低く見積もっているような気がしてならない。そもそも僕は、安井が僕やあなたに理解できるように、僕やあなたに届く言葉で書いているとは思えないのである。安井は、僕やあなたに届くようにと祈りつつも、「安井浩司」であるためには僕やあなたに届くはずのない言葉で書くしかないのであって、だからその言葉はひどく寂しげであり、しかしどこまでも誠実なのではなかったか。
ならば僕たちは安井の書いたものについて何も言うべきではないのだろうか。そうではあるまい。非当事者でなければ見えてこないこともある。それに、世界の圧倒的多数を占めているのはこの非当事者の方だ。この非当事者としての自らのありようを負い目ではなく矜持とすること。『安井浩司俳句評林全集』以後を生きる僕たちの仕事はそこから始まるのではあるまいか。
しかし、私は長いこと小川双々子を誤読していたのかもしれぬ。いま列挙した俳人(金子兜太、鈴木六林男、佐藤鬼房、島津亮、赤尾兜子、三橋敏雄―外山注)から、双々子を引き抜いたらどうなる、ということだ。そのマイナス部分こそ、〈昭和〉俳句に対する双々子の絶好の批評ではなかったろうか。いよいよ私の誤読であってもよいが、双々子には彼等世代の〈昭和〉連鎖には属してもらいたくない。やはり〈昭和〉そのことを超克しようとして、氏こそ〝難解な予兆性〟の中に迫り上りを敢行した私たちの先頭の人であって欲しいのだ。
(原文は「先頭の人」に傍点。 「『小川双々子全句集』評 生きものとしての全集」)
この双々子像こそ、まさしく僕にとっての「安井浩司」そのものであった。「安井浩司」とは鈍痛のように重く圧し掛かる何ものかであった。僕は安井について声高らかに何かを言えるとは思えないし、その寂しさを引き受けることが僕にとってほとんど唯一の「安井浩司」との対峙のしかたであるようにも思うのである。いわば、絶対的な他者を前にして、安易な共感を注意深く回避しながら、それでもその傍らに立ち続けるような姿勢―その寂しさの風圧のなかに立ち続けるような姿勢こそ、僕たちに求められているものなのではないだろうか。
《お前はどうするのか》と安井は問う。この「お前」とは、まずもって安井が自らを指していう言葉であったろう。だから、この問いを発した「お前」についてもそれを引き受けた「お前」についても安易に理解することは許されない。だがその一方で、この「お前」は僕たちを指しているのだと錯覚するくらいの自由なら、僕たちにも許されていると思う。
「お前」のなかに僕はいないだろう。だが、それでもなおその「お前」をわがこととして引き受けるということ―安井の非当事者でありつつ、しかしどこまでも安井とともにあろうとするとき、僕たちにできることは、たとえばそんなふうにしてこの問いを自らのうちに鈍痛のように抱えこむことではないだろうか。
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