2025年12月12日金曜日

【連載】現代評論研究: 第19 回各論―テーマ:「男」を読む その他―  藤田踏青、土肥あき子(今回欠席)、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

(投稿日:2012年01月20 日)

「戦後俳句を読む」も既に18回続いたこともあり、今回から少し体裁を変えて、

①それぞれの設定したテーマ(今回は「男」)を読む鑑賞と、

②作家固有のテーマに基づき読む鑑賞に分けて構成することとした。

 執筆者たちが、「戦後俳句を読む」でそれぞれの執筆者が取り上げた作家の主題に突き当たったと実感したからである。また目次のあり方も変えて、作家ごとに頁で表示することとした。まだ作業中であるが、近いうちにそれぞれの作家鑑賞ごとにーーーつまり執筆者ごとにまとめてアーカイブを読めるようにして、長編の作家論としても読めるようにしたいと思う。

 『戦後俳句全集』への第一歩が始まったと実感している。


●―1:近木圭之介の句/藤田踏青

 接続と切断 ひとり男のかげ

 平成16年の圭之介の晩年(92歳)の作品である。「接続と切断」とは男としての人生に対する複雑な思いとそれへの回顧でもあろう。それ故「かげ」とはネガテイブな面だけを示しているのではなく、「かげ」全体が人生そのものを包含しているという意味を持ち、背中合わせの存在として対峙している。そして「かげ」そのものも現実の明暗の中で接続と切断を繰り返しているという二重構造にもなっている。また一字空白は時間と空間と思考の異化という自己と実在との分化作用を示しており、それが上句と下句への両方へ覆いかぶさる効果をももたらしている。この様な人生に対する思いは当然、晩年の作品に多く見られる。

 男朽ち 牡丹ボウボウ        平成9年  注①

 沈黙の叫び 男あり 或いは欲望   平成16年

 夢でしかない獣が己にいて。今も   平成18年

 ただ一つの生 男はさぐる      平成18年

 朽ちて形を失ってゆくが故に男であり、牡丹なのであろう。そして沈黙の中に夢の中に、欲望としての獣が尚も蠢いているのも男ならではの事。己という「ただ一つの生」とは果して如何なるものであったのか、そこでは生と死が呼び交わしているのであろうか。そのような男の姿は次の詩にも表れている。


    「パレットナイフ 37」抜   注②

 Ⅴ 言葉は主体から完膚なき迄に引き離され

  男は拙い道化役でしかなかった

  冷たい土の上ああ蝶はもう飛べない


 ここには沈黙と道化役と飛べない蝶としての自己があるばかりである。そしてそこには男の少し淋しい自画像があるばかりである。

 自画像をすこし笑わせておく     昭和32年  注③

 顔の左右の分離する自画像を持つ   昭和38年

 自画像が笑わなくなっていた     昭和39年  注③

 自画像の風化した頤が微笑する    昭和40年  注③

 自画像の笑いの変遷は男の自嘲的な人生を物語っているのであろうか。そしてその分裂した角質化した笑いはやがて風化した頤に嵌められた存在になっていったのかもしれない。また常に関門海峡を見つめていた圭之介の内部と外部とでは次の様なドラマも展開されていた。少し長いがその詩を掲げる。


「パレットナイフ 1」   注②

  Ⅰ 航海に出ようともせず汽船はどろどろ

  五臓を流れた。季節は春である

Ⅱ 男には男の悪の火。

  菜の花はいちめん炎え 下弦の月。

Ⅲ 卵 かなしみの町 敗北をみとめる男

  タンカーの標識燈 みな憎めない

Ⅳ 血冥ク路地裏

  海難事故報ハシル

  二月ノ雨ガ燐ノ如ク凍ル

Ⅴ 死者がふりむき聞いたもの未知のこえ

  それは海流と共に消えた


 全て過ぎ去り、残ったものは浪の音だけだった。

 男がいて鍵穴 浪の音する 昭和35年   注③


注①「層雲自由律2000年句集」合同句集 層雲自由律の会 平成12年刊

注②「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会  平成17年刊

注③「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊


●―2:稲垣きくのの句/土肥あき子(今回欠稿)


●―4:齋藤玄の句/飯田冬眞

 男にはうすずみ色を恵方道

 昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 「男」を読み込んだ句は齋藤玄の後半生の句集には2、3例を数えるのみで、とりあげるべき句を探しあぐねて頭を抱えた。全句集全体にも収集の範囲を広げてみたが、これといったものが見つからない。そこで、ライフサイクルの中で、男だけが演じる役割の「父」の句から「男」について考えることにした。

 日曜の春昼なれば父恋ふる    昭和17年作  『飛雪』

 父の手に子供ねむたし椎の花   昭和17年作  『飛雪』

 齋藤玄の父俊三は、二科会に所属した画家で咀華(そか)と号し、川端龍子などと交流があったというが、大正7年(1918)に若くして亡くなっている。玄が四歳の時である。幼少の頃、父親の結核療養のため小田原に移り住んだらしく、春の野にイーゼルを立てて絵筆を動かす父の傍らで、青空に浮かぶ雲を飽かずに眺めていた記憶があるという。一句目の前書には「亡父咀華の遺作一点を入手す、即ち掲げ」とあり、幼少時の記憶を手繰り寄せながら父の面影を遺作の中から探り出そうとしている男の孤独が〈日曜の春昼なれば〉によく描出されている。

 二句目の〈父の手〉は、玄自身の手である。前年の昭和16年に長女が生まれ、自らも父親となったが、二十八歳の玄はまだ父親になりきれていない男だったようだ。〈椎の花〉の青臭さと乳臭い幼児とが、うまく響き合っている。眠る幼児を抱きながら途方にくれている若き父親の姿が浮かんできて、その心の柔らかさまでもが伝わってくる。

 産声の框(かまち)のわれや蛞蝓(なめくじり)  昭和18年作  『飛雪』

 次女が生まれたときの句。当時のお産は自宅に産婆を呼んだことが、〈框のわれや〉からうかがえる。ここでの框は土間から床への上がり口に水平に取り付けられる化粧材の「上がり框(かまち)」のことだろう。下五を〈蛞蝓〉で抑えているので、赤ん坊に産湯をつかわせるために、かまどのある台所で湯を沸かす役をしていたのかもしれない。なめくじは台所などのじめじめしたところを好むからだ。当時の台所は土間とひと続きであったことを考えれば、民俗資料としても興味深い。子供が生まれるのを待つときの男は、たいてい何もできずに框あたりでおろおろするだけのものである。

 麻痺の子の矢車夜半を鳴り出づる  昭和25年作  『玄』

 麻痺の子の行水あはれ水多し   昭和25年作   『玄』

 この年、四歳になる長男が小児麻痺で左腕を不随にした。男の節句を迎えても不治の息子の将来を思うとき、素直に喜べず、悶々と眠れない夜が続いたという。その頃の玄は、銀行の職を辞したばかりで、妻の宝石類を売り食いするほどの貧困生活を送っていた。

 雪に呷(あお)る焼酎耶蘇の鐘永し   昭和25年作  『玄』

 西日に酌めば市井無頼と言はれけり   昭和25年作  『玄』

 酒に逃げたといえばそれまでだが、そうするしかないときもある。これ以降、玄は父親としての視点で俳句を詠むことをやめる。そして、昭和26年、再就職を果すと、句作からも次第に遠ざかってゆく。「俳句は僕にとって、他に自己を通ずる要諦である」と『飛雪』の跋文で書いた玄が、句作から距離を置くようになったのは、おそらく父親として夫としての自身を復活させるために家庭生活に没入しようとの決意があったのではないだろうか。三度の飯よりも好きな俳句を断ち、他者との関係を遮断して、家庭人としてやり直す。それも男の姿勢として肯える。昭和28年に主宰する「壺」刊行を断った理由として、俳人たちの足の引っ張り合いや陰口をたたきあう浅ましさに嫌気がさしたことをあげているが、遠因としては、家庭を支える男としての役割を果すためではなかったかと思うのだが、邪推だろうか。

 男にはうすずみ色を恵方道   昭和52年   『雁道』

 〈恵方道〉とは、年初にその年の恵方にあたる神社仏閣に行く途中の道のこと。恵方は年神(歳徳神)がやって来るめでたい方角で、塞がりの方角に対する明きの方角をいう。〈うすずみ色〉は、薄墨色で、ねずみ色のこと。句意としては、幸せになる道を求めて歩むとき、男にとっては地味で目立たない薄墨色がふさわしい、とでもなろうか。平畑静塔は、この「を」を係助詞で、強調の「こそ」の意ととる(*2)が、文法的な裏づけに欠ける。なぜなら、どの古語辞典を紐解いても「を」に係助詞の用法が見当たらないからだ。間投助詞「を」であれば、強調の意はある。その場合は、あえて訳出しないことが多いようだ。

 男と女の恵方への道はそれぞれ異なる。女のそれは明るい色を曳いている。男のそれはうすずみ色を曳いている。別に不思議はない。(*3)

 自註をみると男女の恵方の受け止め方の違いを詠んだものであることがわかる。そこでの「男」は、父親、夫といった役割のない男本来の持つ「性(さが)」のようなものを言いあてているように思うのだが、どうだろうか。

 亡父ひたにそびゆる夏の平かな   昭和54年  『無畔

 病床の中で玄は亡父の幻を夏の地平の中に見出しながら「父親」になりきれなかった自身をふりかえっている。やはり男は、女が母や妻になるようには、簡単に父や夫になることはできないのかもしれない。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2 平畑静塔 「『雁道』の手法」 『俳句』昭和55年8月号所収 角川書店刊

*3 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●―5:堀葦男の句/堺谷真人

 男出て茄子畑を蹴る雹の変

 『山姿水情』(1981年)所収の句。

 夏の夕方。突然の雷鳴とともに、ばらばらと大粒の雹が降りそそぐ。雹がやむとあとには無残な光景がひろがっている。車の窓ガラスや街灯の覆いは割れ、ビニールハウスは裂け、収穫を待つばかりだった野菜や果物は薙ぎ落とされている。屋内に避難していた男が畑を見回り、腹立ちまぎれに落ちた茄子を蹴っている。

 葦男の俳句には様々な男たちが出てくる。友、父、吾子、師と呼ばれる近しい存在から、少年、青年、老人など人生の多様なステージにある男性像までがそこには含まれる。

 父子新年ボデイを軽く打ち合って   『機 械』

 まばゆい少年池畔に栗の花荒さび    同

 更に、給仕、火夫、勢子といった職掌・役割を持つ人々や、髭面、広額、剃り跡青い仲間、濃い眉毛同士など身体的特徴で示唆される一群の男たちがいる。

 給仕戻る寒の外気の香を放ち     『火づくり』

 動乱買われる 俺も剃り跡青い仲間   同

 彼らには年齢・境遇相応の属性が賦与されている。表情や身のこなし、話し方の癖や体臭といったもの、つまり身体性にもとづく男くささを備えているといってもよい。しかし、葦男俳句にひとたび「男」「男等」という抽象的語彙が使われると、状況は一変する。

 男等の事務暗しチューリップの割れ目  『火づくり』

 頭かかえた男置き 脚の群とだえる     同

 どんどん溢れる無言の男等夜霧の駅     同

 みどり流れる車鏡 男のさびしさ照り  『機 械』

 これらの作例に出てくる男たちには身体性にもとづく男くささが乏しい。寡黙かつ無表情、去勢された家畜のように存在感が希薄なのである。その中でわずかに生きた人間の体温を感じさせるのが茄子畑を蹴る男であろう。もっとも、予期せぬ天変を前になすすべもない彼にとっては、売り物にならない茄子を蹴ることでなけなしの怒りを吐き出すのが精一杯の感情表出なのだが。

 ところで、「男」に随伴するこのような諦念もしくは無力感イメージは葦男という作家に巣くう或るコンプレックスの表象ではないかと筆者は疑っている。すなわち、さきの大戦における日本の敗北および自身の軍歴欠如によるそれである。

 秋風が面うつ打つにまかせける

 『火づくり』「風の章」の連作「終戦 三句」の第一句めは敗戦に呆然とする葦男の自画像である。連合国に対する無条件降伏と陸海軍解体は当時の多くの日本人に集合的トラウマを与えた。しかし、肺患を以て兵役を免ぜられた葦男の敗戦には「戦わずして敗れた」という苦味が伴ったのである。

 国民皆兵の軍国にあって兵役を果たせないのは一種の不能者であり、友人や兄弟の戦死の報に接するごとに、葦男が焦燥と無力感を募らせたであろうことは想像に難くない。日本は負けた。死力を尽くして戦ったが、負けた。だが、少なくとも自身に関する限り、一弾も放つこともなく負けたのである。敗戦がもたらす集合的トラウマと兵役免除による個人的トラウマ。表象としての国家レベルでの去勢と自身の不能意識。これらが知的操作の及ばぬ葦男の無意識の中でいつしか無力で受け身の「男」イメージへと結像していったのではないか。

 葦男という俳号は『古事記』の葦原色許男(葦原醜男とも書く)に由来すると聞いたことがある。葦原色許男は大国主神の別名である。肇国神話の英雄の名を己が俳号とした葦男。

 そこに男性性への屈折したこだわりを見るのは深読みに過ぎるのであろうか。

 アイスキャンデー売れず予備隊志す   『火づくり』


●―8:青玄系の作家の句/岡村知昭

 煮えきらぬ会話 男ものの時計を嵌め    梶谷節子

 いくら恋する男女だからといって、いつも高揚した気分のまま進むわけではないのは当たり前の話。掲出句に登場するふたりの間にはいま微妙な空気が漂っていて、そうなると会話もなかなかにはずまないのは致し方ないところ。彼も彼女も微妙に気まずい今の雰囲気を何とかしなくてはいけないとは心の内では分かっているのだけれども、さりとて状況を打開できるきっかけがなかなかに見出せず、ただ「煮えきらぬ会話」を繰り返すしかないのが、彼女の苛立ちをさらに掻き立ててやまない。「ねえ、何とか言ったらどうなのよ」と言い募るわけにもいかず、だけどこのままにしておくのも気分が悪い、苛立ちによって鋭さを増しつつある彼女の視線に、彼の方だって気が付いていないわけではないのだが、だからといって自分がどうしたらいいのかは分からないのは彼女と同じ。会話は弾まず、ふたりの間を漂う微妙な雰囲気は変わらず、なんともやるせない気分がお互いの心を覆ってしまっている、そんな只今のふたりである。

 ここで出てくるのが「男ものの時計」。普通に考えれば彼が嵌めている時計のことを指しているはずなのだが、彼と視線を合わせたくないばかりに視線を彼の手元に移している彼女からすれば単に「時計」とだけしておいてもいいはずなのに、彼女はわざわざ「男もの」と手元の時計のあり様をしっかりと確かめている。「男ものの時計」を嵌めているのがまぎれもなく彼なのであれば、彼女はここで彼の「男」である部分に対して醒めた視線とかすかな疑問を抱きだしていると見ておいたほうがよさそうだ。いかなる理由で会話が「煮えきらぬ」ようになったかは定かではないが、こんなことになったきっかけを作ったのは彼のほうにあるはず、でも彼はそのことを果たしてわかっているのか、との想いに彼女はすっかりとらわれている。「男ものの時計」を嵌めている彼への苛立ちはいまや「あなた本当に男なの?」との思いを彼女に抱かせているのだ。

 でもここまで鑑賞しながら、もし「男ものの時計」を嵌めているのが彼女のほうだったらとの読みも考えてしまうところもある、というのは男性が嵌めているものに対して「男もの」との限定をしてくるのがどうしても違和感の残るところであったからである。「煮えきらぬ」会話の続くことに耐えられない彼女はいま何時だろうかと時計に目を落とす。手に嵌めている「男ものの時計」は今日のデートに合わせて家族から借りただろうが、今の重苦しい雰囲気とともに、なじみのない時計の重みが手首に、そして全身に回りつつあるかのようだ。だけど「男ものの時計」を嵌めていることが彼女がいまの微妙な雰囲気になんとか耐えている支えになっているのかもしれない、時計を替えてきた今日はいつもの私とは違うのよ、決していつものようにはいかないんだからね、という感じで。きっかけさえつかめば、彼女は一気に彼に対して言葉を連ねていくのかもしれない、それがどのような結果をもたらすのかはともかくとして。分かち書きを活用した二句一章に内蔵された彼と彼女のストーリーはなかなか簡単にはいかないようである。

 作者は愛媛県出身、高校時代に部活動として俳句に出合い、顧問の教師が「青玄」同人だったのがきっかけで「青玄」入り。掲出句は楠本憲吉編の『戦後の俳句 〈現代〉はどう詠まれたか』の「十代作家の登場」の章に「洋裁学校生」との肩書きで登場する。この章は「青玄」の作家たちを取り上げており、梶谷のほかに登場するのは伊丹三樹彦、穂積隆文(学生)、諧弘子(主婦)。この章で取り上げられた作品を以下に挙げてみよう。

 神戸の秋は淋しい 忠告下さいお母さん   梶谷節子

 揺れていた吊橋 好きだと言われた日

 覇者にも鋭い 鎖骨の窪み ファンファーレ   穂積隆文

 ふふーんふふーんとシャンソン 明日へ漬けるキャベツ   諧弘子

 この時期の「青玄」では1964年(昭和39)9・10月号で「10代作家10人集」、翌年1965年(昭和40)9・10月号で「20代作家20人集」と、若手作家の特集を積極的に組み、俳句現代派運動における成果として世に知らしめようとしていた。ひとつの運動体における、まぎれもない青春の季節のまっただなかに「青玄」はあった。


●―9:上田五千石の句/しなだしん

 雪催松の生傷匂ふなり   五千石

 第二句集『森林』所収。昭和四十四年作。

 第二句集『森林』の第一句目に置かれた句である。この句について、自註(*1)には、〈赤松の幹の生なましさが、いつまでも心を離れなかった〉と記す。

     ◆

 これは男の句だ、と思う。だが、それはなぜだろうか。

 「生傷」という不穏な言葉からか、「傷匂ふ」という身体感覚からか。どちらもそうだという気がするし、さらにいえばこの情景に着目し、それを詠もうとした心持ち、それ自体に「男」を感じるのだと思う。実はこの句を知らない初心の頃の私にも、似たような句がある。私の句は「雪折」の松の傷口に着目したものであったが。

 さて、この「生傷」は、幹に付けられた外的なものか、「雪折」のように松の幹もしくは枝から木肌が露出した状態だろうか。ちなみに、私の生家あたりには防風林として松が多くあり、冬には日本海からの風に耐える松の姿を間近にして暮らしていた。厳しい海風に耐えた松も、風が収まった大雪の日に、雪の重みに耐えかねて、枝が折れるものもあり、中には落雷のあとのように、無残に幹が大きく割れたものもあった。その割れた幹の内部はやけに赤かったように記憶している。

     ◆

 掲出句。この句の季語は「雪催」であるから、まだ雪は降っていない。だが、降り出しそうだと感じられる曇天の下、足元からは底冷えもしているかもしれない。そんな中、晒されている木肌は艶めかしく、木の、命の温度を顕わにしているのだ。木肌は人のそれに似て、まさに「生傷」と捉えられるだろう。

 「松の生傷匂ふ」は現実の景のなかにも、どこかロマンを求める、そんな「男」の俳句と言っていいと思う。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊


●―10:楠本憲吉の句/筑紫磐井

テーマ:妻と女の間

解説:楠本憲吉の新シリーズのテーマは、「妻と女の間」とした。

 憲吉の独特の女性のとらえ方は、近代以後の俳句でもユニークなものである。近代俳句は、写生に基づく真実や境涯性、人間探究派の追求した生命や生活といった倫理観に束縛されていたが、これから解放されたのが戦後の現代俳句であった(それでも戦後の社会性俳句や前衛俳句は倫理的であったのだが)。

 女性を道具としてしか見ない、それが、妻の存在に至るとおそらく、妻は敵に近いという憲吉の独特な世界にまでになっているのではないか。なぜならこの熾烈なバトルが俳句で描かれたこと自身奇跡だと思うのである。おそらくこんな自己中心的な男は許し難いという読者が8割はいるのではないか。例えば前々回紹介した中西氏はその8割の人。そこで私はそれ以外の、こんな男でも許してくれそうな2割の読者のために鑑賞をしてみたいと思う。

 人は聖人君子ではないことはよく分かっているが、それにしても羽目を外しすぎたのが楠本憲吉であろう。既に18回の連載を行ったが、その殆どの回で私は憲吉批判を行ってきた。何のために「戦後俳句を読む」でこんな楠本憲吉を取り上げなければならないかと言えば、まさにこれが「戦後」であるからである。仮面をむしり取って、男の本性をさらけ出したような俳句、女流で言えば(鈴木真砂女でも稲垣きくのでもない、)娼婦俳人と呼ばれた鈴木しづ子と対になる、アプレゲール世代の懲りない俳句を愛するからである。

 『新撰21』で登場した北大路翼や、『超新撰21』で登場した種田スガル、惜しくもこれから外れた御中虫、松本てふこらもまだその性のあからさまさと奔放さで楠本憲吉にはかなわないのではないか。新世代が反面教師とするにはちょうど良い作家なのである。

 それにしてもこれだけ批判しながらも、憲吉の作品の何と軽快なことか。逆に俳句が忘れて久しいものがここにあるかも知れない。私としては、相馬遷子という生真面目な作者の次に取り上げたいと思った作家はこんな作家であった。

 楠本憲吉全句集は、「妻と女」の句を除くとおそらく半減してしまうであろう。「妻と女」は楠本憲吉の俳句のすべてといってもよいであろう。


本題

 光る靴踏むや瓦礫の我が華燭  26(22年)

 25歳で柴山節子と結婚した時の句。憲吉の妻俳句の全てがここから始まるので掲げておいた。まだ戦後の瓦礫が放置されている時代の結婚式である。自解によれば、式場は日本橋高島屋であり、八重洲口は当時瓦礫の山だったという。往時茫々の感がある。そして新婚の新居は鎌倉材木座の借家であった。

 あまり個人的な履歴については触れないようにするが最初だけは予備知識として書いておこう。結婚式を挙げたその高島屋に灘萬がテナントとして入り、そこで楠本夫妻は夫婦でアルバイトをする。憲吉の職歴としては、しばらく出身の灘高の講師、帰京して青山学院中学の講師をしていたが、生活が苦しいためふたたび帰阪して灘萬に入社する。必ずしも灘萬の御曹司の華やかな生活が始まったわけではなかったようだ。やがて、灘萬が東京店を開店するために再び東京へ。昭和31年には灘萬代表取締役となるのである。もともと憲吉は慶応大学法学部政治学科を卒業していたのだが、この間、同大文学部仏文学科に学士入学、国学院大学大学院日本文学科に入学したりしているし、また、武蔵野女子大講師、大谷女子大助教授、慶応大学文学部講師、田中千代学園短期大学教授、東横学園短期大学講師などを務めている。すべて女子大生の学校だから鶏小屋に狐を放った感じがしないでもないが、憲吉がアカデミックな研究と教育の場を往復していたことは記憶に残してよいことである。

 しかしこの夫婦はあっという間に倦怠に陥る。昭和28年、こんな句を詠んでいる。いささか倦怠が早すぎるようである。

 麦芽の青さ妻と睦みし日の遠さ  65

 妻とゐて風花の昼倦みゐたり  66

 結婚6年目、長男3歳、長女1歳のときである。


●―12:三橋敏雄の句/北川美美

テーマ:『眞神』を誤読する

解説

 遠山陽子さんの個人季刊誌『弦』が年賀便として届いた。敏雄辞世句「山に金太郎野に金次郎予は昼寝」が中扉を飾り、評伝「したたかなダンディズム 三橋敏雄」が完結(全35回)となり満9年の発行を一旦終刊させた。「敏雄の生誕から没年までの軌跡を辿ることが目的だったので、『弦』も一区切りとしたい。」ということをご本人から伺った。敏雄最期の句会参加となった2001年「面」忘年句会での高得点句作者4名へ後に辞世句となった揮亳された色紙が手渡された様子も掲載されている。

 「したたかなダンディズム」のタイトル命名に最期まで師を見守り続けた遠山氏の女心を感じていたが、敏雄の作品の上での「したたかさ」は『眞神』つづく『鷓鴣』に顕著に現れているのではないかと思っている。

 『眞神』により敏雄はコアファンを獲得し、芭蕉、子規が時代の中で俳句を確立していった作品群と対等に置かれ、まさに敏雄自身の俳句様式の確立でもあった。現在も多くのファンの経典になっている。敏雄は『疊の上』にて蛇笏賞を受賞するが、やはり『眞神』がいい。モルトウィスキー、熟成された日本酒の香りが沁み入る洒脱さある。

 ただ、『眞神』は至極難しい。アミ二ズム、シャーマニズム、父、母、胎児、さまざまな謎の主題が登場し輪廻転生の曼荼羅を巡っているような旅に読者を連れていく。「同行二人」遍路道を歩んでいるような不思議な世界がある。経典でありながら未だ読みこなせないのが『眞神』である。美酒であるが故に妙に男を意識させるのである。逆にそれは俳句が男の世界であることをも示唆しているようで女人禁制の山に感じることも確かである。

 敏雄の句は直球の句意を持ちながらマニアックな読み方もできる句、時が経過し別の読みを発見できる楽しみがある。人生のさまざまな事象に遭遇した時、句が燦然と輝き、突然と解る時がある。それが運命的に短い俳句ならではの力ともいえる。

 『眞神』が何故洒脱なのか、何故魅力的なのか。これから書き進めるものは『眞神』の「誤読」のひとつであることをはじめから白状しておこう。


本題

① 昭和衰へ馬の音する夕かな

 無季句である。逆に有季とは何か。別れを示唆するメールに「いろいろ有ったけど」と凝縮された9文字の箇所があった。送信者は何故「有」と漢字を当てたのか。それは有季すなわち四季の移ろい、人の移ろいのことなのか、と思いを巡らせた。四季様々の天候があり、いろいろな事象が起こり、人はさまざまなことを感じ、地球の自転とともに歳をとる。それが有季の原点。敏雄の無季句にはその有季と同等の人の感覚に訴えるもの、読者との共通認識を詠み込ませる錬金術が潜んでいる。

 「昭和衰へ」と突然時代への嘆きと思える上五で始まる冒頭句。時代を表現する「昭和」という時と「夕」という具体的な日没の時を告げる景の狭間に「馬の音」が聴こえる。『眞神』の時間軸の提起である。二つの時が織りなすものは、読者の立ち位置を「時空」へいざなう四次元的感覚を覚える。歴代元号として最長(64年、実質62年と14日)の「昭和」に何を感じるのかは読者により様々である。平成もすでに24年となった。「降る雪や明治は遠くなりにけり」の草田男と対極に、衰えながら今も「昭和」が息づいているように読めるのである。

 自作ノート(『現代俳句全集四』1977)に因れば、「万葉集・巻十一」の「馬の音のとどともすれば松陰に出でてそ見つるけだし君かと」を遠望しているとある。そして敏雄の敬愛する渡辺白泉に「あゝ夜の松かと見れば馬の影」「遠い馬僕みてないた僕も泣いた」がある。朔太郎の『青猫』には死を象徴する「蒼ざめた馬」が登場し「私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!」と叫んでいる。過去と現在を行き来させる使者として馬の音。時代に取り残された望郷へと読者を誘う。『眞神』プロローグにふさわしい「馬の音」である。

 昭和が衰えた頃の馬の音について、全く角度を変えイメージを膨らませてみる。「秀和(しゅうわ)レジデンス」という1964年東京オリンピックの頃の高度成長期に分譲開始されたマンションが今も港区・目黒区周辺に点在する。「昭和(しょうわ)」を彷彿するビンテージ・マンションとして現在人気がある。そこに血の色のムスタング(Ford Mustang 1964アメリカ車。ムスタング=「野生馬」)がアイドリングをしながら夕日を浴びて停まっている。そのエンジン音をアイアン・バルコニー越しに聴きながら化粧を急ぐ女…。これも昭和に対する風俗的オマージュの風景でもある。

 昭和暦で数え今年は昭和87年。五感を張り巡らせ『眞神』の旅をはじめたい。


② 鬼赤く戦争はまだつづくなり

 16-1 “テーマ「色」”では、上掲句の「赤」について書いた。

 俳句は最短の詩歌だが掲句の句意は重くのしかかる。

 『眞神』が連句の手法をとっていることは生前のインタビュー(『恒信風』聞き手:村井康司)で明かされている。敏雄はその詳細に触れていないが、無季句を積極的に『眞神』に配置していることも大いに古典俳諧と関連があるだろう。「新興俳句は壊滅した」と言い切る敏雄の無季句模索から30年以上が経過していた。冒頭句「昭和衰へ馬の音する夕かな」を発句とするならば掲句は脇となり、発句にある余情・余韻をもって付けられるものということになる。連句を考えなくとも自然と冒頭句につづく第二句は、関連をもって見えてくるものではあるが。言わずと「昭和」と「戦争」、「馬」と「鬼」が対になっていよう。忘却されそうになる戦争を鬼という妖怪を登場させ風化させまいとしているように感じる。

 日本の「鬼」は「悪」から「神」までの多様な現れ方をしておりある特定のイメージが摑みにくい。ここでは、戦争がまだつづく要因になる鬼、すなわち地獄の景が想像できよう。戦争を知るものだけが味わった地獄。戦中派といわれた敏雄世代の苦悩がいつまでも続いているということにもうなずける。「赤鬼」ではない。元は何色だったかわからない鬼が赤くなっている。血を流している、あるいは、怒っていると想像できる。

 敏雄の鬼は血を流し、怒り、反戦を訴える。『眞神』刊行の少し前、戦後派世代である北山修(精神科医・詩人)の『戦争を知らない子供たち』がヒットしたのは1970年のことだった。戦争を知らない子供だった自分が、今、戦争に向き合った敏雄と対峙している。戦争の影は決して消えることがない、消えさせてはいけないものだろう。

 敏雄は1955(昭和30)年、密林での激しい戦闘が繰り広げられた東ニューギニア(現:パプアニューギニア)およびソロモン群島等の戦没日本兵遺骨収集のための航海に従事している。陰陽五行の赤の方位は南であるという説があり、戦後の昭和を生きた敏雄の句は私的な面に於いて検証してもリアルに成り立つのである。

 2011年は、かの大惨事が起きた。戦争と原発事故は国策より破滅的な被害を出してしまったということに共通点がある。第二の敗戦として災後がつづいている。赤くなっているのは鬼の涙かもしれない。


 鐵を食ふ鐵バクテリア鐵の中

 五七五のそれぞれの先頭に「鉄」を配したリフレイン。『眞神』の冒頭三句は多くのファンの脳裏に焼き付いているようだ。


 鉄を食ふ

 鉄バクテリア

 鉄の中


 改行してみるとまさにマザーグースのような詩である。俳句は詩であると翻弄した新興俳句、のちの高柳重信が取り組んだ多行形式が重なり合う。敏雄は前衛とも古典とも区別のつかない境界を越えた唯一の俳句を求め『眞神』に集中させていったと思えてならない。

 人類にとって最も利用価値のある金属元素の「鉄」を浸食するバクテリアが鉄自身の中にあるという、まずは破滅的示唆と読める。鉄バクテリアとは土壌微生物の一種で用水路口などでドロドロとして褐色の粘液を作りだす。航空機などの損傷に鉄バクテリアが影響しているようだ。

 詩・短歌・俳句の三位一体が最晩年までつづいていた吉岡実の『マクロコスモス』に於ける65行目「粘菌性のマクロコスモス」から最終70行目「不条理な鉄の処女を感じる」にかけてのクライマックスが、上掲句と根っこがどうも似ているように読める。同じ戦中派の吉岡実と親交を深めたことも納得できる。*1)

 リズム感あるリフレインに隠れ、「バクテリア」という目にはみえない生物への想像がふくらみ、鉄がぐるぐると円を描きながら地核に潜り込むような神秘性をこの句に感じる。「鉄」は46億年前に地球を形成した元素でもある。生命・宇宙へと想像はひろがる。転換の三句目として、なるほどと思う。


*1)―「マクロコスモス 吉岡実」抜粋―

粘菌性のマクロコスモス

千紫万紅の高千穂の峯をふりかえり

鳥肌の世界を反省する

棒高跳選手

バーを越えるとき

不条理な鉄の処女を感じる


●―13:成田千空の句/深谷義紀

  掌(たなそこ)に拳一と打ち田起しへ

 第1句集「地霊」所収。

 千空作品で描かれた「男」と言えば、何と言っても北の地・青森で困難な環境のなか懸命に農作業に取り組む「農夫」達だろう。

 思いつくままに挙げれば、以下のような句である。

 火の秋刀魚農夫にいまも力飯   『天門』

 どろどろの農機と農夫聖五月   『天門』

 だみ声の男ら堰を浚ふなり    『白光』

 第1句の「力飯」、第2句の「どろどろの」、第3句の「だみ声」などの措辞が印象的である。いずれの作品も、汗と泥にまみれて農作業に取り組む北の男たちの姿が活写されており、これらの農作業の困難さや彼らの無骨なひたむきさまでが読者に伝わってくるようである。

 さて掲出句もこれらの作品と同様に、こうした農夫の姿を採り上げたものである。とりわけ、掲出句は農作業そのものを描いたものではなく、その予備動作とでも言うべき仕草を採り上げている。けれども、農作業自体を描いた句より、むしろ印象鮮烈である。まさに映画の1カットを見せられたような、鮮やかな読後感がある。バシッという、掌を打った力強い拳の音が耳に残る。

 そしてこの仕草は、これから男が始めようとする「田起し」という作業の重さを予感させるし、それに向かう男の決意が滲み出た行為と言えるだろう。さらに言えば、田起こしそのものが米作りの一連の作業の一番最初に位置付けられるため、これから一年を通じた米作り全体への決意と言えるかもしれない。

 こうした一連の作品がリアリティを持つのは、千空自身が終戦直後の一時期帰農生活を送り、苦労を重ねた経験があるからだとも思える。そうした農作業の辛さをよく知り、農夫たちに惜しみない共感を有する千空だからこそ、作りえた作品だったとも言えよう。もしかしたら、千空作品に描かれた農夫たちは、若かりし頃の千空自身の姿だったのではないか。そんな気がしてならない。


●―14:中村苑子の句【『水妖詞館』―あの世とこの世の近代女性精神詩】53.54.55.56.57.58/吉村鞠子

2014年10月31日金曜日

53 遠き母より灰神楽立ち木魂発つ

 「吉村さんは妖怪とか興味ありますか?」と聞かれ、苑子と水木しげるの話をした事がある。私は、少女の頃好きであった〝ゲゲゲの鬼太郎〟の話くらいしかできなくて、残念でありまた申し訳なかった。苑子は、話を展開したいようでいろいろ聞いてきたが、私は知識がとぼしくて話相手になれなかったのだ。倉阪鬼一郎の『怖い俳句』が苑子存命中に刊行されていたなら、さぞかし喜こんだであろう。(登場する女流俳人の中で最も多くの作品が取りあげられている。)

 江戸時代の妖怪絵師、鳥山石燕(水木しげるは、石燕を継承している作風でもある。)の妖怪画集『画図百鬼夜行』の中に「木魅(こだま)」と題した、木々の傍らに老いた男女が描かれた画がある。今回から始める第3章の「父母の景」を書くにあたり、私はその画を苑子と苑子の木に宿る神霊の如き「父母の景」に捧げたいと思う。

 掲句の木魂も字は異なるが、木に宿る神、木の精霊であり、それは母なのではないだろうか。第1章「遠景」の終句に引き戻される。


22 行きて睡らず今は母郷に樹と立つ骨

 この句の「母郷」が、掲句の「遠き母より」にあたるのであろう。遠く過ぎ去ってしまった時間、それは何時でも呼び戻せる、また呼び戻される母と苑子だけの時空である。


白髪となりて一樹を歎きあふ           『花狩』 

降霊の一本杉とわがいくさ                    〃 

言霊も花も絶えたる木を愛す                〃 

よるべなき木霊の憩ふ青木立           『花隠れ』  


 苑子は、木には霊が宿ることを終生疑わずにいたようである。樹木そのものに限らず、木の国・流木・木戸・止り木等、木の材質そのものも愛し、木という語にも魅了されている。木は、近代日本に生まれた世代にすれば、家であり、欠かせない生活用品でもあり、遊び場であった。高屋窓秋の木の句には木霊の声が聴こえてくるようである。


木の家のさて木枯を聞きませう         高屋窓秋『石の門』 

風もなく木は囁きてピカソの死                〃       『ひかりの地』 

遥かより木がさらさらと枯音す                〃       『緑星』


 戦時中の満州生活からの帰還後、日本の風土が木がより繊細に研ぎ澄まされて詠われている。

 しかし、苑子の愛する樹木の句は、『水妖詞館』(処女句集、昭和50年刊行)、『花狩』(第2句集、昭和51年刊行)が多くを占めており、それ以降の句集には、1、2句しか収録されていない。苑子を(近世までの日本を)育くんできた木が失なわれていくことは、苑子にとっても腑甲斐無いことであった。散文集『俳句自在』(平成6年発行 角川書店)の「真夏の夜の夢」では、憤りにも似た文章を載せている。


(前略)植物も生物なのだから、何がしかの感情はあるというもの。「成木責め」などが本当に効果があるのも、植物に感情のある証拠だと信じている。(中略)太陽は遮ぎられ、わずかに生き残った蔓科の植物たちは全部、食物となった。もはや、人間との交感どころか、人間への復讐にもえて死物狂いの攻撃をはじめ、人間を絶滅せんと怨念の蔓を窓硝子に這わせて隙あらばと狙っている。(中略)と、サボテン変じて夏の夜の夢と化した。


  文中の「成木(なりき)責(ぜ)め」とは木(き)呪(まじない)とも言われ、刃物を持って木に向かって、「成るか成らぬか」と問い、木の陰で「成ります成ります」と木に代って答える小正月の行事である。苑子らの時代は馴染みのある風習だったのかも知れない。


成木責しつつ故郷は持たざりき        加藤楸邨 

成木責兄は大猿われ小蟹                   加藤知世子


 また、今回の句の「灰神楽」も、戦後火鉢の衰退とともにあまり使用されなくなった季語であろう。灰の中に湯、水がこぼれて灰が舞い上がることを神楽と呼んだのは、神事の湯立神楽(湯を用いて五穀豊穣・無病息災を祈願した)が、水を入れた釜の下から木を燃やして火を起こした後、灰ができることに関係がありそうだが――。木・火・土・金・水の陰陽五行思想の法則を備えているらしい。

 いずれにしても「灰神楽」が、半世紀前頃までは日常語であったとしても、その語の呪詛的神秘性を持つ古代の響きが、苑子の詩をかたち造るのに適っている。遠い記憶の中の母が、天照大神を天の岩戸から誘い出した天細女命の如く、灰に包まれて妖しく踊る姿さえも想像することができる。その妖しくも昏い灰の踊りに、木の神、精霊が呼ばれてしまったのだという物語も成り立つ。しかし、苑子の話や随筆などを読む限りでは、子女養成の塾を開いていた厳格な明治女の母である。苑子が「灰神楽」の懐古の灰の中に母の憂いや寂寥を見れば、母の宿る木から母という精霊が母郷へ旅発ってしまったこととなる、母郷の母と常に木に棲んでいる母の二重構造という解釈に至った。

 私と同じ世代の俳人、神山姫余の句集『未生怨/死児の森』(平成15年現代俳句協会発行)は、家・母・女のテーマが絡まりながら句々が連鎖している。

 その句集評で私は、次のように述べた。(『未定』85号・平成17年)


(前略)「家」というものの屹立は、継承や血脈のみの続行では無い。埋没し再生する女という一筋の遺恨が誇示と追従を重ね合わせながら支えてきたものではないか。(後略)


 だが、女の血脈の濃さは、男の広漠な血気にも薄められないものなのである。姫余が句集の後記にて述べていることは、誠に興味深い。

 この世には、母から娘にしか受け継がれない遺伝子が存在するという。息子しかいない場合、母親のその遺伝子はそこで途絶えてしまうという。母から娘へ、遺伝子は何を語り伝えているのだろうか。素晴らしいことなのか、怖いことなのか、このことを何と表現すればいいのだろうか。母親が体験したことや感情が、少なからず、密かに生まれくる娘にすり込まれているとしたら…。

 苑子は娘を産まなかったので、祖母や母から受け継がれたものは消滅してしまったことになる。「灰神楽」へ発ち去った「木魂」は、〈22 行きて睡らず今も母郷に樹と立つ骨〉となって永遠にその樹に宿ったままなのである。今では、母とともに苑子も宿るその樹は、俳句の娘たちの成木責めを秘かに待っているのかも知れない。


晩菊や母を離れて母を見る                    大木あまり 

母と娘に生まれあはせし花野かな        正木ゆう子 

ははそはの母からははへ春の風            鎌倉佐弓 

野苺や母に母あることを忘れ                あざ蓉子 

花冷えや母に母いてひとりに触る        後藤貴子


54 母が憑く午前十時の風土記かな

母の書を離れず紙魚の生きゐたり        橋本美代子


 「母の書」は、橋本多佳子の色紙か短冊であろう。「離れず」と「生きゐたり」が、多佳子の情念の迸る句を生々しく蘇らせ、娘である美代子は改めて母の存在感に驚愕し、未だに色褪せぬその句を懐しむのである。

 苑子の句は、「風土記」である。「風土記」は生まれ育った伊豆地方の風土や産物、文化などが記載された書物である。それは、羽衣伝説や、富士山の雪は6月15日になくなり、子の刻以降に新しい雪が降るという逸話のある駿河国風土記、また伊豆国の海底噴火や狩猟の話など富士山を中心とした山々と海、島々のことと興味の尽きないものである。が、「午前十時」が何を意味するかである。朝と昼の中間に当たるその時刻は、かつて休憩を入れる時であった。最近では、午後3時のみが一般的であるが、早朝から働く農作業や大工などの職人仕事にはその習慣が残っているところもあるかと思う。

 ある「午前十時」、苑子は母と過ごした時代の伊豆の時間をふと思い出していると、その時空へ引き戻されていく。「母が憑く」によって、母の家や郷里に対する深淵と業が浮彫りになる。午前十時になると、燦々と陽の遍く伊豆の豊かな自然と、自他共に厳しい母の守る家への執着とが、甘味な拷問のように苑子を呪縛する。母を思う時、伊豆を思い、伊豆を思うと母が「憑く」。伊豆に憑いた母が、苑子へも憑依する。

母我をわれ子を思ふ石蕗の花            中村汀女

 この汀女の句に、竹下しづの女を偲ぶ。(明治20年生・昭和26年没65歳)しづの女は、夫亡きあと(昭和8年、47歳)、5人の子を持つ彼女を支えた母が病没した後、病身を押して看病したが、力尽きて半年後に亡くなった。そのしづの女には母を詠った句が残されていないようである。

 しづの女は、福岡県に生まれ、大正8年吉岡禅寺洞を知り俳句を始め、昭和3年「ホトトギス」同人。夫が急逝した後、福岡市立図書館の司書として勤務し、学生俳句連盟を結成し、機関誌「成層圏」(早逝した長男が編集している)の発行指導もしている。


短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまおか)        しづの女『颯』昭和16年 

乳ふくます事にのみ我が春ぞ行く             〃            〃 

夏痩せの肩に喰ひ込む負児(おいご)紐(ひも)                     〃            〃 

寒月の児や月に泣き長尿(いば)り                        〃            〃 

子を負うて肩のかろさや天の川                 〃            〃 


 しづの女の代名詞とも言える1句目を含む子育ての苦悩や喜びを詠んだ句が今も語り継がれるのは、女性が仕事を持つことが当り前の社会である現在こそ、母としての存在を時代を越えて知らしめているからであろう。


日を追はぬ大向日葵となりにけり  しづの女『颯』 

大いなる月こそ落つれ草ひばり                 〃            〃 

緑陰や矢を獲ては鳴る白き的                     〃            〃


 しづの女は、前述の〈須可捨焉乎〉や〈汗臭き鈍の男の群に伍す〉などの豪放な句ばかり取り上げられるけれども、ここに掲げた自然を直視する奔放な明朗さに彼女の生き方の骨太の向日性が認められる。

 先に私は、病身を押して看病した母の句がないと述べたが、父の句はある。


夫遠し父遠し天の川遠し       『颯』補遺 大正9~昭和14年


 父親がいつ亡くなったのかは解らないが、「天の川」を眺めながら、夫と並べて「遠し」と畳み掛けているのだから父生前の句ではないだろう。母の半年後、病身のため亡くならなければ、母の句も作句していたのではないだろうか。

 苑子も父母の句を残したのは『水妖詞館』からで、両親の死後詠まれていることになる。(『現代女流俳句全集』第4巻所収「初期句篇」、『花狩』初期抄、「春燈」時代も含む『花隠れ』初期句篇には見当らない。)特に『水妖詞館』には「父母の景」と章立てて22句掲載されていて、母の句だけでも10句ある。

 苑子の「風土記」は、伊豆の「風土記」というよりも、父亡き後、母と過ごした伊豆の地での時間と風習なのかも知れない。(苑子は母の実家、伊豆で生まれているが、父が亡くなる11才までは東京で育っている。)

 汀女の句、「母我をわれ子を思ふ」との思いを噛みしめながら子育てと仕事に追われていたしづの女の母の句を読めないことは残念でならない。しづの女の「風土記」にも必ずや母が記されていたはずである。


母老いて鳥のぬくみを持ち寝るか                  北原志満子 

母の日も母の素足の汚れ居り                          原コウ子 

母の行李底に団扇とおぶひひも                      熊谷愛子 

吾が性(さが)に肖(に)し子を疎み冬籠               竹下しづの女 


55 亡き母顕つ胎中のわれ逆しまに

 この章「父母の景」には、10句の母の句があるが、私は今回の句に最も母恋を感じる。『水妖詞館』は、25年間の句業をまとめた処女句集であるから、この句がいつ書かれたのかは解らないが、「亡き母」とあるので若い頃の作品ではないだろう。しかし、「亡き母」が「顕つ」と、苑子は胎児に戻るのである。そして、胎中にいた頃のように「逆しまに」なると――。


1 喪をかかげいま生み落とす龍のおとし子

 私は1の句を鑑賞した際に〝生は死への始まりであり、生み落とした『水妖詞館』の作品全体の妖しき予兆の第1句目である。〟と述べた。生み落とされようとする前にすでに胎内で創成されていた喪失感が、1の句と今回の句との共通項となっていることは興味深い。苑子は、母が自分を産んだ時と同じように、苑子自身の分身とも呼べる処女句集『水妖詞館』を「喪をかかげ」て生み落としたのである。

 胎内記憶があったかのように「逆しま」であったと言うのは、逆子という意味も成り立つが、誕生する者よりも、死へ向かう者としての暗示を持つ。自分は「喪をかかげ」ながら生み落とされたと認識しているようである。

 散文集『俳句自在』にも自分は〝死〟を負って生まれたのだと思わせる文章がある。


(前略)詩人の吉野弘氏によれば、「苑」の中に「花」と「死」を感じます。苑に咲き乱れている「花」を見ていますとその地下に累積された「死」が見えます。その「死」を超えようとして地上に出現してきたのが、「花」なのです。

と、いうことになる。どうやら、私は誕生と同じに「死」の烙印も押される運命だったようである。(後略)


 大学入学後すぐに結核病を患い、入院し療養生活をしている。何よりも医者から死に至る病名を告知されこの『水妖詞館』を編むことに至った時、苑子という名前を授かったこと然り、自分が死を迎えることは胎内に在った頃からの宿命であったと納得していたのだろう。また、告知された病気は、祖母や母が亡くなった時の病名であったと同散文集に書かれている。

 母の胎内で生まれ落ちることを拒むかのように「逆しまに」なっている胎児。その頃の母親が如何なる精神状態であったのか、胎教がどのように影響したのかは、母親と子にしか解らない、2人だけの閉鎖された世界である。「亡き母」が顕われると、苑子は胎内にいた頃の羊水に包まれたような感覚になる。羊水とは、温かく柔かく胎児を包むものであると言われているが、苑子はそれだけではない何ものかを胎内で感受した。その羊水に浸っている感覚は、自身の死を最も実感する時なのである。死が羊水を透かして己れの躰にひたひたと沁みてくると、彼岸へと続く水へ泳ぎ出しそうになるその恐怖が、この句に詠われているのである。

 仄暗い胎内で母と死を共有する苑子の母恋の詩である。

 道元の『正法眼蔵』の「山水経」に〈青山運歩常、石女夜生兒〉がある。難解なのだがある件がこの稿に残響するので引いておきたい。

石女夜生兒は、石女の生兒するときを夜といふ。おおよそ男石女石あり、非男女石あり。これよく天を補し、地を補す。天石あり、地石あり。俗のいふところなりといへども、人のしるところまれなるなり。生兒の道理するべし。生兒のときは親子並化するか。兒の親となるを生兒現成すると参学するのみならんや、親の兒となるときを生兒現成の修證なり参学するべし。完徹すべし。


曼珠沙華抱くほどとれど母恋し              中村汀女 

母に戻す火の玉小僧半夏生                      文挾夫佐恵 

桔梗やこのごろ母のおそろしき              山尾玉藻 

泣きながら責めたる母の荒野かな          津沢マサ子


56 母の忌や母來て白い葱を裂く


葱白く洗いたてたる寒さかな                  松尾芭蕉 

葱洗ふ浪人の娘痩せにけり                      正岡子規 

葱きざむ還りて夢は継ぎがたし              森澄雄 

夢の世に葱を作りて寂しさよ                  永田耕衣


 葱が冬の季語であるためか、料理の脇役である故か、明るい向日性を表現した句は少ないようである。森澄雄や永田耕衣の〝夢〟も、葱の持つ寂寥の滲み出る中に一句の味わいが深まる。


寒風に葱ぬく我に弦歌やめ                      杉田久女 

幸不幸葱をみじんにして忘る                  殿村兎絲子 

下仁田の土をこぼして葱届く                  鈴木真砂女 

白葱のひかりの棒をいま刻む                  黒田杏子


 女性にとって葱は、毎日刻むと言って良いほど日常生活に馴染みが深い。〈葱提げて芸者が昼の顔で行く・石さと志〉と川柳に詠われるように、葱とは、女の普段着のようなものである。

 黒田杏子の句、「ひかりの棒」と葱を言い留めた卓抜な着想も、主婦の矜持と見ることもできる。また、殿村兎絲子の句は、普遍的に女性の共感を呼ぶであろうし、杉田久女の句においては、当時の主婦の生活にやり切れない久女の感慨が表出されている。

 余談だが、真砂女の句で思い出したことがある。

 平成10年12月の成城句会の袋まわしにて「嫁の座」の題に、苑子は〈嫁の座や深谷の葱に涙して〉と詠み、高得点を取っている。その時に、下仁田葱や深谷葱などの話で盛り上がり、苑子は葱が好きであったと記憶している。平成9年、俳句と惜別をした生前葬「花隠れの会」以降も(平成12年秋に入院する迄)忘年句会・袋まわしと新年句会には出句をしていた。因みに平成11年12月の袋まわし(最後の忘年句会)では、「マダム・ローズ」という題に〈マダム・ローズ楽屋ですする晦日そば〉で笑いの渦の中、最高点を獲得している。あどけない笑顔であった。


父母未生前青葱の夢の色              『花狩』昭和51年 

裏階段下れば青き葱畑                   『吟遊』 平成5年


 苑子の作品世界は、非日常を彷徨する句が多くを占めており、食材の句が他の女流俳人よりも極めて少ないが、葱の句は幾つか作句している。先に掲げた永田耕衣の葱の、〈夢の世に葱を作りて寂しさよ〉の悟りのように、「葱」とは、苑子にとって卑近でありながら他に余儀の無い深遠さを宿しているようである。


亡母去る葱の白根に土かぶせ           三橋鷹女


 苑子は母が葱を裂いているところを見ている。鷹女もまた母が葱の根に土をかぶせ、去って行く経緯を見ている。母に直結される葱を媒体として、母がそれぞれの場所に彼の世から飛来してくる。

 母の還る処は葱であり、そしてまた葱を介して働く日常の姿であることを母も娘も了解している。しかし、鷹女句の「土をかぶせ」る行為に比べ、苑子句の「裂く」という語彙の選択は、苑子の胸中にある母の姿がこの〈父母の景〉の母の句に通底する緊迫感が漂う。「切る」や「刻む」ではなく「裂く」のである。母が裂いているものは葱なのだが、違う何かの代わりに葱を裂いているのだとまで思考が及ぶ。鷹女句の寒風に曝された葱の白根は、温かい土をかぶり安寧する。苑子句の白い葱は、冷たく光る刃に切り裂かれていく。

 母の句では、酷烈な鷹女の詩型が態(なり)を秘そめる。鷹女自身が母として子を詠う場合もそうであるが、母子を描く時、鷹女は平易な慈愛に満ちた装いを呈する。鷹女は鷹女自身を追いつめながら自らの老いをテーマに身の内を刳りながら、詩が展かれていく。それに対して苑子は、母子もまた、自身の詩の世界の住人でありその中で像を成している。苑子の身の内から吐き出される母恋句は、妖しく仄白い光を放ちながら苑子自身へ憑依するのである。


母の魂梅に遊んで夜は還る                       桂信子 

庭に秋草畳に母の生えはじむ                   鳥居真里子 

霜の夜の母が肩までさはりに来る            金田咲子 

ふりむきざま青かげろうを吐く母よ          豊口陽子


57 鍵穴の向うは母のおろおろ鳥

 中国の古典のひとつ、明時代、洪自誠の随筆集『菜根譚』に次の一節がある。


冷(れい)眼(がん)にて人を観、冷(れい)耳(じ)にて語を聴く


 冷静な眼で落ち着いて相手の人間を観察し、沈着な態度で人の言おうとすることを聴く。ということだが、苑子の母とは、子女養成の塾を開いていたというからには、このような訓辞を子女達の前で述べるような女性だったのではないかと思う。しかし、今回の句には、「父母の景」のこれまでの4句とは違う母の姿が現われている。「おろおろ鳥」は、調べてみたが該当する鳥がないため、造語なのだろう。少女の頃、「鍵穴の向う」の母を垣間見てしまい、その日から別の母が創意されてしまった。多くの娘達は、ある日その局面に遭遇する時が来る。昨日までの温かく厳しく、分別のある大人の女性である母とは違う、悲劇の母、愚かな母、衰えゆく母を見てしまう。それは、母子にとって幸か不幸か解らないが、必然でなのだろう。そうして母子は女同志になるのである。


鍵穴を抜いて風葬身近にす                   林田紀音夫 

鍵穴に蜜ぬりながら息あらし               寺山修司


 この2句は趣が異なる句ではあるが、林田紀音夫の「鍵穴の向う」は、少なくとも「風葬」がもう少し遠い場所であったはずだし、寺山修司の「鍵穴の向う」は、甘美な世界を予告させる。男にとって、「鍵穴の向う」即ち部屋の内部は、外部よりも居心地の良い所としてある。女性にとってはどうだろうか。家を守り、取り仕切る責任ある城は、時には投げ出したくなる所でもあるが、近代までの女性にとって、逃避することはできない。

 「鍵穴の向う」の母を目撃してしまった娘は、母の不幸とも呼べる一面を見続けては、いつしか己にもその血が流れていることに震撼するのである。


母の日や母なし母と呼ぶ子なし           後藤綾子『綾』昭和46年 

母の忌や月下死なうとしましたね             〃          〃 

紅梅や和紙の手ざはり母に似て                 〃          〃

 

 苑子と同年の大阪生まれの後藤綾子の母の句である。(大正2年生まれ・平成6年没81歳)1句目は、仕事(歯科医師)と俳句に時間を費やし、未婚であったのか、既婚だったとしても子を持たぬまま働きづくめの歳月を重ねた女性の「母の日」を詠む姿は、当時よりも現代女性に共感を得られる哀切さがある。他にも〈石女の庭姫生まぬ月の竹〉〈雪こんこん子を取ろ子取ろ子が欲しや〉等がある。2句目は、苑子句の「おろおろ鳥」の母のように「月下死なうと」した母を見たその日、綾子ももうひとつの母親像を創意することとなったのである。3句目の「和紙の手ざはり」、それは丹念に手間を掛けて作られる日本古来からの歴史があり、大量生産される人工の紙の安易な感触とは違う、自然と日本人の綾なす凹凸の確かさがある。その和紙と、花と言えば桜ではなく梅であった頃の雅びさと母を重ね、キャリアウーマンの走りである自身から見た遠い母の時代を大切に吟じている。

 冒頭の『菜根譚』に、

成功勝利は逆境から始まるものだ。物事が思い通りにいかない時も決して自分から投げやりになってはならない。

の一節もある。明治の母達は誰に言われなくとも時代の波を我慢強く気丈に乗り超えてきたのである。苑子も綾子もそんな母の姿を見て育ったのだ。

 綾子は、昭和48年大橋櫻坡子主宰「雨月」、その後赤尾兜子に師事、野見山朱鳥主宰「菜殻火」を経て、「鷹」の藤田湘子に師事。のち同誌同人。当時は珍らしい職業婦人であり、生涯歯科医師として働いた。


薔薇腐ちわが道はわが選びしに                     綾子『綾』      昭和46年 

放下して白き牡丹の中にゐる                           〃    『青衣』昭和55年 

葦火とろとろ西行も遊(あそび)女も                     〃    『萱枕』昭和63年 

浮いて来い何が何でも浮いて来い                    〃          〃 

とくとくの真清水化けるまで生きな                  〃     『一痕』平成7年 

能勢路や窓開けて待つ狼を                               〃          〃


 「わが道はわが選びしに」と決意し、働き続けては「放下して」きた沢山の思いがあったであろう。「何が何でも浮いてこい」とは、己れに投げかけられた言葉だとすれば痛々しいまでの矜持である。5、6句目は、没年の翌年刊行の遺句集所収である。「化けるまで生きな」「窓開けて待つ狼を」の枯渇することのない生への漲溢には舌を巻く。俳諧性を混じえながら「白き牡丹」「葦火」「真清水」「能勢路」の母の時代から変わらぬ日本の風土を独自に詠いあげている。

 綾子は、恩師を次々と亡くし、俳句の良き理解者であった中上健次にも先立たれてしまったと聴く。幾多のことを犠牲にして、社会に貢献してきた仕事同様、常に率直な言葉で古典と現代を融合させ、躍然する句群は、才智溢れる師達との出逢いで育くまれていったものである。

 苑子と同じように、大正生まれの綾子が現代女流俳句を新鮮な流転へ導いたことは明らかである。明治という母の時代の辛苦と気高さを認識し、不安定で不可思議な耽美的空間を大正時代の少女期に体感し、波乱の昭和を生き抜き、平成も覗いた歴史は、極めて濃厚な女性達を築きあげた。苑子も綾子も時代に選ばれた女流俳人である。苑子は「おろおろ鳥」には決してなるまいと思ったであろうし、綾子は「月下死なう」とはしなかったのだ。その母の血が流れていることを孤独に噛みしめた日々もあったであろうが…。


昼顔は誰にも入れぬ母の部屋                    鳥居真里子 

指ほぐす母は坊守 花明り                        松本恭子 

母の亡き夜がきて烏瓜の花                        大木あまり 

母郷ついに他郷や青き風を生み                沼尻巳津子


58 夢に見る夜見の胎児は母がりに

 掲句に55の句との関連性が見出される。55~58の4句(見開き2頁の4句)の両端の2句に「胎児」が据えられている。


55 亡き母顕つ胎中のわれ逆しまに

 私は、55の句を最も母恋が感じられる句だと鑑賞したが、一対とも呼べる掲句もまた母恋句である。

 「夜見」は、日本神話のあった出雲の国の地名、夜見のことで黄泉の語源にもなっている。もともと夢のことを指していた説や、闇から黄泉が生じたとの説もある。掲句の「夜見」は黄泉であり、「胎児」は苑子自身である。「母がり」は、〝母の許に・母の所へ〟という意味なので、「逆しま」であった55の胎児は、もはや黄泉の存在になってしまった。55の句に私は、母が顕われると胎内記憶があったように、母の胎内に包まれる感覚になる、と述べたが、掲句は、逆に幽体離脱した苑子が母の棲む夜見の国へ逢いに出掛けて行くのである。いずれも胎児の苑子であるということは、やはり苑子にとって胎内で過ごした母との時間は、母へ最も癒着した重要な期間である。苑子に限らずどの母子も同様であると思うのだが、苑子ほどにこだわらないのは無意識の内に、母親の胎内での蜜月の交感を忘れ去ってしまっただけなのであろう。


母がりの屠蘇の美ましとうけ重ね             後藤夜半 

母がりの夢のをはりの蓮の花                     江戸人 

蝉殻脱げぬ蝉ゐて母がり                            男波弘志 

草の花もう母がりといふはなく                 河野邦子 

母がりの朝に夕べにほととぎす                 下里美恵子


 ここに掲げた「母がり」の句々は、後藤夜半の作品の他は、亡き母か存在している母の句なのか判然としない。江戸人の作品は、「夢のをはりの蓮の花」が黄泉の母との邂逅を夢に見たと読むことも可能である。男波弘志の句は「蝉殻脱げぬ蝉」が、自身とも母ともとれる。また、「蝉殻」が母で、「蝉」が自分という母恋とも思え、多種多様な解釈が展開される。 河野邦子は、現実の母と疎遠になってしまったのか、亡き母を恋しがっているのか。下里美恵子の句もどちらとも取れるが、亡き母であれば、「ほととぎす」と母が重なり、哀愁を呼ぶが――。

 ところで、この第3章「父母の景」には母の句が10句収められているが、第2句集『花狩』にも10句掲載されている。『水妖詞館』は苑子自身の選句による編集であるが(25年間の句の中から139句を厳選)、『花狩』は、洩れた作品が惜しいからと、翌年、高柳重信、吉岡実が編集出版した句集である。(苑子は、自身の選句や編集と異なることを主張しながらも、それを楽しんでいるように語っていた。)三橋鷹女の処女句集『向日葵』と第2句集『魚の鰭』のように姉妹句集であるため、作句の期間は出版の年には関わらず、2句集とも25年間に作られた作品である。『花狩』の10句の母の句には、穏やかな句も見受けられる。


母を夢みて七日通へば葛の花                 『花狩』


 そして、次のような句々がある。


火の中へ母を放ちて火をなす秋              『花狩』 

走る火に野仏を据ゑ母を据ゑ                        〃 

置きざりの母や火の蛾は火に盲ひ                〃


 この前にも3句置かれ、6句の母の句が並ぶが、この3句の「火」の母が、実に凄絶であり母への愛憎相半ばした状態である。この「火」の母の連作が、『水妖詞館』から振り落とされたのは、母への感情が作句当時から微妙に変化したものだと推察され、今回の句は、「火の中へ」「置き去り」にした母への懺悔の句なのではないかとまで想像を逞しくしてしまう。しかし、「母がり」が、母許ではなく母狩りであれば、最も怖い句になろうなどとあらぬ妄想をしてしまうのも苑子俳句であり、また『水妖詞館』なのである。そして、苑子はそんな解釈も面白がるであろう女流俳人であった。


母の声落葉の上に落葉積む                       津田清子 

水紋に触れては沈む母のくに                   増田まさみ 

前の世も母の手をとり春の野へ               福田葉子 

花いちご母より先の死を願ふ                   古賀まり子