その中西夕紀さんは、「都市」創刊主宰されている。
俳誌「都市」で中西さんの日々の旺盛な俳句道の研鑽ぶりを目の当たりにする。
特に私が共鳴句を選ぶというよりは、果実の断面の切り口を持って私なりの俳句鑑賞をしてみたい。
それは優れた俳人の日々の精進を垣間見れば見るほど、どの俳句も良さがあって選びあぐねる。
中西夕紀さんは、昭和55年、宮坂静生氏の指導のもと「岳」に参加して20年余在籍。宮坂氏の勧めで「鷹」に入会して藤田湘子氏に15年間師事。平成8年に「晨」に同人参加にて宇佐美魚目氏に師事。そして平成20年に「都市」創刊主宰されている。
中西友紀さんの俳句造詣の深さは、この句集の随所に沢山の俳句を読み込んで沢山の俳句刺激を受けながら切磋琢磨してきたことがうかがえる。
その中で新たな俳句の道を切り拓こうと人生を費やしていることが、ひしひしと伝わる。
旺盛果敢な俳句の詠みっぷりは、沢山の秀句を成す。
ばらばらにゐてみんなゐる大花野
花野へ花を愛でにいくのが常人ですが、俳人は人間模様までも愛でる。花の飛花落花の吹雪も見事ですが、花を愛でる人間模様のばらばらに蠢くユーモラスさを盛り込む。俯瞰したカメラの超広角な視界の魚眼レンズで見据えたような大花野の人間模様は愉快である。
魴鮄の多恨の顔に揚がりけり
ホウボウは、カサゴ目ホウボウ科に属する魚類で風変わりな外見と動作が特徴の海水魚。美味な食用魚でもある。それを唐揚げにしたら多くの恨み辛みが魴鮄の顔に表出したと感受する。私たち命は、万物の沢山の死を喰らって生きている。このような美味しい魴鮄の唐揚げの顔にさまざまな諸行無常の現世をこの俳人は表出してみせている。
皿のもの透けて京なる端午かな
皿に盛られた京料理は透けて見えるほどの料理職人の技があでやかで見応えもある。ここでの端午(たんご)は、五節句のひとつ。端午の節句のこと。菖蒲の節句とも呼ばれる。日本では端午の節句に男子の健やかな成長を祈願し各種の行事を行う風習があり、現在では新暦の5月5日に行う。国民の祝日「こどもの日」を指す。そんなめでたい日。この句集の俳句の中に詠まれている子への眼差しは、私にはちょっと厳し過ぎないいかなっと思えたりもしたが、これら子どもへの眼差しは子が親になり、孫にあたるくらいの子への視座だろう。眼に入れても痛くないくらいの子を厳しく見据えているようだ。そんな俳句模様には、中西さんのあたたかな人間ドラマを見るようだ。伝統というのは、生と死の中でこの世にしっかりと繋ぎとめる統べでもある。いにしえから伝わる形には、親は子の成長を季節の織り成す節目節目の節句に子の成長を祈願する。その伝統行事には、親が子の健やかな成長を、子が親に成長の過程を形にして示すことの意義がある。そんな大切な成長の過程を織り成す日々の俳句の中にふっと「強くあれっ」と厳しく育ててあげたい気持ちが解けてぱっと歓喜として表出して愛が開花する。
「手話の子の手も笑ひをり花木槿」の木槿の読みは、むくげ。「海の日を車中に入れて帰省かな」「ひろげたる紙に数式蕗の薹」の蕗の薹の読みは、ふきのとう。「つきあぐる笑ひなるべし田の蛙」「暗がりを子のよろこべる月見かな」など他にも沢山たくさん中西夕紀の眼に入れても痛くない愛燦燦と降り注ぐ日々が俳句に織り成される。
もう誰のピアノでもなし薔薇の家
誰にも訪れる死の足音を懸命に詠み込もうとしている中では、この句に私は共鳴した。こういう表現は、なかなか出てこない慧眼だろう。
下記に共鳴句をいただきます。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
青嵐鯉一刀に切られけり
かなぶんのまこと愛車にしたき色
曳航のヨットは色を畳みけり
笑ふ顔集まつてゐる五万米(ごまめ)かな
雪掻きに古看板を使ひをる
マスクして葬の遺影と瓜ふたつ
皺きちやな紙幣に兎買はれけり
干鱈しやぶりながら語れる開拓史
初乗のやはり眠つてしまひけり
万歳をしてをり陽炎の中に
鯖〆て平成も暮るるかな