[星野高士氏は句集『渾沌』によりこのたび第38回詩歌文学館賞を受賞されました。(2023年3月8日)]
●玉藻一一〇〇号記念
令和4年11月12日、「玉藻一一〇〇号記念、星野椿プラチナ卒寿合同祝賀会」が品川プ リンスホテルで開かれた。来賓100人を含む250人を集めた盛大な祝賀会であった。千号を超える大結社の祝賀会で滅多にない祝賀会であるが、しかしそれだけではない感動的な祝賀会であることも付け加えておきたい。
なぜなら、実は令和2年9月4日、「玉藻90周年、星野椿卒寿、鎌倉虚子立子記念館開館20周年合同祝賀会」が案内されたがコロナのため中止、令和3年9月3日同合同祝賀会が再度案内されたが再び中止、今回は三度目の正直としてがけっぷちの案内であったからだ。コロナの影響下で中止になったり規模縮小の祝賀会はよく見てきたが、ここまで根気強く企画された祝賀会はなかった。実際12日の祝賀会は、全く通常の会食や会話が行われており、コロナ以前の活況を呈していた。最もそのすぐ後には第八波が押し寄せてきたのだが。今後コロナの歴史で真っ先に思い出されるイベントとなることであろう。
●玉藻の歴史
「玉藻」は、虚子が立子に昭和5年6月創刊させた初めての女性主宰者による俳句雑誌である。虚子は創刊号の消息で「私は本誌を女流の雑誌とし又俳句初心者の雑誌とし度いと思ひます」と述べている。創刊号を見てみると、山口青邨、赤星水竹居、池内友次郎、真下真砂子、新田宵子、星野よしと、本田あふひ、阿部みどり女、杉田久女、西山泊雲、池内たけしの顔ぶれが記事をだし、当時ホトトギスの中心作家である4Sは一人も顔を出していないのも象徴的だ。中心の高浜虚子は「牡丹の芽(俳句5句)」「「俳句をどうして作ったらいいか」「文化学院生徒に俳句を教える」「立子へ」、星野立子は「理容院」「玉藻初句会」「著莪の花(俳句5句)」「手紙」を出している。虚子・立子の身内、女流作家、ホトトギスの重鎮が轡を並べているが、文芸雑誌というよりはごく身内の雑誌と言った方がいい。それだけに杉田久女が顔ぶれに入っていることにほっとしたものを感じる。おそらく昭和6年の馬酔木独立という激動期の直前のホトトギスにとっても絶頂期の姿と言ってよいだろう。
俳句選は、虚子・立子共選の「一人一句」(5句応募して1句しか採られない)、課題句選(創刊号は本田あふひ、阿部みどり女。翌月から青木稲女、杉田久女が行う)があり、いずれも圧倒的に女性会員が多い。
この中でも圧巻は、虚子の「立子へ」だろう。我々は、岩波文庫に収録されている「立子へ」を読むことにより、虚子のその他の俳話、「虚子俳話」「俳句への道」などと同様ホトトギス俳句の神髄を語っているように思うが、「玉藻」に掲載されている第1回を読むとき別の感覚を抱く。その他の俳話が虚子の講演会とすれば、「立子へ」は虚子・立子の二人芝居(それも虚子だけが語り立子は聞き役で相槌だけを打つ)で、我々はその舞台の観客に過ぎない。そう、新派の芝居――我々はそこに親子の情だけを感じればよいのだ。
「立子、お前に雑誌を出すことを勧めたのは全く突然であつた。」
「お前に雑誌を出すことを勧めた理由はまだお前には話さなかつた。ここに少し其理由を言つて見やうと思ふ。」
「今度早子[椿氏のこと]が生まれてから愈々束縛が多くなつた。お前も、もう俳句は作れさうも無い、と言ふやうになつた。私は愈々残念なことだと思つた。そこで思ひついたのはお前の手で雑誌を出すことであつた。」
「お前等二〇代三〇代の若い女を中堅にして雑誌を編輯して見ると云ふ事は面白い事だと思ふ、何物にも拘束されず、自分達の要求するままに、傍若無人にやつて見るがよからうと思ふ。」
「私の如き老人は唯遠巻に背後にあつて、お前等の要求に任せて助力する。」
親子の情がよく伝わる一方、「玉藻」と言う雑誌の原動力が星野椿の誕生と言う個人的な事情であることもよくわかる。「玉藻」に星野椿は欠かせないのだ。祝賀会の趣旨の椿の卒寿を祝う意味もここではっきりする。星野椿の歴史・生涯は玉藻の歴史でもあるからだ。
(以下略)