ベネチアで出会ったHaiku
この夏(2019年)、僕が在籍する王立芸術大学のプログラムの一環で、ベネチアビエンナーレを見に行った。ロンドンから格安航空券で行く二泊三日の旅で宿は共同部屋、とゆとりのある行程ではないが、世界的に高く評価される現代美術の祭典を見られることにわくわくした。
一緒に行った仲間と街を散歩していると、書店を発見。一人がそのショーウィンドウを見て、「あら、Haikuの本があるわよ」と言う。イタリアの作家による『季節の俳句(Haiku for a Season)』という本で、早速購入する。序文などはイタリア語で書かれているが、それぞれの句には英訳も付いている。事後に別の文献を調べると、作者のアンドレア・ザンゾットは1930年代には既に「俳諧的」であると評され、20世紀後半にはイタリアで最高の詩人と評価されるようになったらしい。彼の俳句を引用する。
7月という名の小さな火山/何にでもやわらかい溶岩を流す/人生がなにか/夢以上のものとなるように昼間にビエンナーレを見た後、夜は街のレストランで仲間と食事。イタリア名物のスプリッツを飲みながらの雑談は楽しい。カナダの高校を卒業したという台湾人の女性がいて、彼女いわく、その高校の授業でHaikuを作ったとか。僕が驚いていると、逆に彼女は言った。
「なんでそんなことに驚くの。だって、俳句は世界的に有名じゃないの!」
その夜の会話では各自がビエンナーレの感想をコメントし、僕はこんなことを語った。ビエンナーレで見た作品の多くはとても巨大で、時にはひとつの作品が数十メートルの空間を占める。また、暗闇や照明を活用し、音や動きを使ったり、と五感に訴えるものが多い。つまり、現代アートは、観客の感覚をコントロールしようとあらゆる手段を使う。一方、文字だけを使う文学作品にはそれはできず、できるのは読者の想像力を刺激することだけ。俳句のように短く限られた形式の場合には特にそうだ。だが、そのような作品の大型化・多感覚化の傾向は本当に現代アートにとって幸せなことなのか——。
そんな僕の話を受けて、帰路の空港でイギリス人女性の友人が話しかけてきた。彼女は20世紀の美術作品がなぜ大型化したかの歴史について語り、そしてあるアイデアを提案した。
「ねえ、すべての美術作品を10センチ以内とか小さなスペースに制限するビエンナーレがあったら面白いんじゃないかしら?」
まるで俳句みたいだ、と思いつつ、創造行為にとってある種の制限があることは意外に重要かも、とも考えた。そのような観点からは真逆の位置にあるとも見える現代アートと俳句は、それゆえにお互いが学び合えることも多そうだ。そんなことを感じたベネチアビエンナーレだった。
(『海原』2019年10月号より転載)
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